池田市の古の織姫神社。
伊居太神社の特徴
昔は賑わった、仁徳天皇創建の由緒ある神社です。
五月山公園の側に位置する、静寂感のある神社です。
織姫伝承があり、ひっそりとした雰囲気が魅力的です。
立派な神社なんですけどね瓦が結構くたびれてきています。
伊居太神社いけだじんじゃと読むそうです。池田最古の神社豊臣秀頼が再建したそうで、確かに豊臣の家紋がありました。歴史ある建物で寄棟造樹齢の長さを感じる大きな木が境内に何本が立っていました。ひっそりとしたところですが是非一度お立ち寄りください。周辺に忍者公園もあります。
機織り技術の伝来に関連する由緒ある落ち着いた神社です。南にある神社参道の階段登り口に、石の台座部分だけが残されています。石灯籠か狛犬か、もしかしたら鳥居が建っていたのかもしれません。その台座には「五軒問屋」と刻まれています。五軒問屋とは江戸時代、大坂・伏見町で長崎からの輸入反物を扱う特権を持った商人たちのことだと思われます。反物や生糸など繊維関係の商品を扱う商人たちが、機織りの神様を祀る神社へ石灯籠などを奉納したのでは、と勝手に想像しています。訪れたのは5月ですが、参道の階段途中にテイカカズラが咲き芳しい香りが漂っていました。境内に上がると社殿、拝殿、能舞台、山門などがありました。瓦にはひょうたんの絵柄も見られ、豊臣秀頼によって再建されたエピソードに関係するのでは、と、またまた想像力が働く楽しい神社でもありました。
池田市に現在する最古の神社らしい。御祭神は「応神天皇」「仁徳天皇」「穴織(あやはとり)大明神」。「穴織大明神」は、別名「穴織媛(あやはとりのひめ)」といい、呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる織姫だそうです。珍しい。池田駅側にある呉服神社が「下の宮」とされるのに対し、こちらの伊居太神社は「上の宮」と称される。
応神天皇の時代に機織の技術を導入するために呉の国から招いた4人の縫工女のお1人と応神天皇、仁徳天皇が祀られます。3神が祀られているので千鳥唐破風寄棟造りの三社造という珍しい本殿となっています。山門は織田信長と荒木村重のケンカのトバッチリで焼失したものを豊臣秀頼が再建したもので瓢箪の飾り彫りが設えてあります。「下の宮」の呉服神社が新しい社殿であるのに対し「上の宮」伊居太神社は歴史を感じさせる風情でいい対比になっています。
紅葉🍁がキレイでした。まだまだこれから色が変わるモミジもあったので、暫く楽しめそうですよ❗
昔は相当賑わったらしい。付近は池田新地等と称され赤線が存在した頃、地域のヤクザからの御布施も多かった、と近隣住民の1人が力説していた。今の池田駅周辺など田んぼだらけだった、とのこと。余り人には教えたくないが、紅葉の時期は素晴らしい。
御祭神:穴織大明神/応神天皇/仁徳天皇創建は仁徳天皇77年(390)と伝わり、池田市に現存する中では最古の神社です。現在の社殿は慶長9年(1604)豊臣秀頼公により再建されたもので、御本殿は「千鳥唐破風三棟寄造」という中央に唐破風、両側に千鳥破風を組み合わせた珍しい構造になっています。御祭神の穴織大明神は、日本に機織・裁縫の技術を伝えた「穴織媛」のことであり、呉の国に派遣された阿知使主と都加使主父子が、呉王に乞い連れ帰った呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4姉妹のうち、池田の地に迎えられた穴織媛が仁徳天皇76年に死去、翌77年に仁徳天皇によって祀られたと伝えられています。拝:2021/10/18
池田市の五月山公園の側にある神社です。普段もお詣りの人は少なく、ひっそりと佇んでいますが、その由緒は古く、大変尊い歴史を持った神社です。周りを木々に囲まれ、散策にもとても気持ちの良い場所になっています。最寄りの阪急池田駅からは、徒歩で15分〜20分程度の距離で、神社近くになると最後は急坂の石段を登ることになりますが、境内まで辿り着くと、猪名川を、挟んで遠く西宮・芦屋方面まで見渡せます。
| 名前 |
伊居太神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
072-751-4652 |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
伊居太神社(いけだじんじゃ)。大阪府池田市綾羽。式内社(小)論社、旧村社。「穴織(あやはとり)宮伊居太神社」とも。主祭神:穴織大神・応神天皇・仁徳天皇資料によると、猪名川西岸の河岸台地の上に鎮座する。池田市の五月山公園に隣接している。応神天皇の時代、機織・縫製技術を得るために呉(中国南朝を指す)の国に派遣された阿知使主と都加使主父子が、呉王に乞い連れ帰った呉織(くれはとり)・穴織・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4人の縫工女のうち、池田の地に迎えられた呉服・穴織姉妹の妹、穴織媛が仁徳天皇76年に死去し、翌77年に仁徳天皇によって祀られたとされる(穴織・呉織が渡来して技術を広めたが仁徳76年両名は没した、仁徳天皇は両名を祀る神社を立て、穴織を秦上社、呉織を秦下社とした)。この秦上社が当社である。当神社は秦上社として鎮座以来現在地にあつた。尚、今(日本書紀での)の呉衣縫と蚊屋衣縫は彼女らの子孫である。尼崎市下坂部の伊居太神社が本来の地とされるが、中古この地の繁栄に件って、穴織大神を祀る伊居太神社を町の入口に遷座して産土神と仰ぎ、呉織祠の御旅所と定めた。何時しか呉織祠を伊居太神社と混称するに至った。『延喜式神名帳』に掲載されている摂津国河辺郡の伊居太神社の論社の一つとされており、もう一つの論社は兵庫県尼崎市の伊居太神社(いこたじんじゃ)である。延暦4年(785年)、桓武天皇の勅命により社殿を新たにし、応神天皇、仁徳天皇も祀るようになった。天正7年(1579年)の織田信長と荒木村重による有岡城の戦いの戦火に巻き込まれて社殿が焼失する。その後、慶長9年(1604年)に豊臣秀頼によって本殿が再建された。明治時代になると村社に列せられている。とあります。