神武東征の地、神秘の新屋坐。
新屋坐天照御魂神社(西河原社)の特徴
新屋坐天照御魂神社は、総持寺から北進171号線を越えた場所にあります。
大阪府茨木市内には、当神社を含む3社の神社が存在しています。
磯良神社(疣水神社)は当社境内の末社で、霊泉の効用が有名です。
にいやにますあまてるみたまじんじや御祭神 天照国照彦火明命(天照御魂神)天児屋根命、建御名方命境内社 東之神社(八幡神、住吉神、磯良神)、須佐神社(速須素盞鳴尊)、稲荷神社(宇賀御魂神)延喜式神名帳にある「新屋坐天照神社」は茨木市に三社の論社があり、その内の一社。他は、茨木市西福井と茨木市宿久庄(いずれもわたしは未参拝)旧鎮座地は、現在、磯良神社(疣水神社)がある場所で、境内社の東之神社から磯良大神が遷座されています。
新屋坐天照御魂(にいやにいますあまてるみたま)神社⛩御祭神の天照御魂神(天照国照彦 火明命)とは、神武東征以前に近畿を治めていた天孫族の饒速日(ニギハヤヒ)命のことである。永らく朝廷より幣帛(へいはく:神への供物)を拝領していたとあり、大和朝廷的には御霊社としてもてなしていたのではと推察する。
総持寺から北進171号線越えた所にある。
読み方は(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)です。大きな木に囲まれていて、落ち着きのある空間でとても心地良いと思いました。中に入るとなんだか別の世界にいる気がしました。駅からも近く、アクセスしやすい場所となっているので是非1度行ってみてください。
新屋坐天照御魂神社(西河原)にいやにますあまてるみたまじんじゃ大阪府茨木市西河原3丁目1−2大阪府茨木市内に三社ありますあとの2社は大阪府茨木市宿久庄と大阪府茨木市西福井です祭神天照国照天彦火明大神天照国照彦火明大神(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)は物部氏、尾張氏の祖神ですなお天照御魂神社と称する神社は近畿地方のみにあるみたいですかっては磯良神社(疣水神社)は当社の境内の末社であったが磯良神社(疣水神社)がイボ、ホクロに効用があるという霊泉が有名になり「ひさしを貸して母屋を取られはめになった」という実際、現存の建屋等は質素です2021/2/24 参詣。
車で行くなら西河原運動公園の駐車場が便利。境内の樹木が立派。何かとくに見るものは無いですが、お手入れはされている感じ。
先ずは案内板にある文字を起こしてご紹介します。文化財保存にご理解いただき、協力下さればと思います。以下のテキストは、ご自由にコピーペースとしてご活用下さい。【新屋坐天照御魂神社】●主祭神:天照御魂神(天照国照彦火明命・あまてるくにてるひこほあかりのみこと)●祭日:一月一日・歳旦祭、五月十日・春祭、十月十五日・例祭●由緒:古社である、当地西河原の周辺はその昔、新屋郷といわれ、遙か古代から天照御魂神がお鎮まりになった。名神大社の中でも相嘗祭に朝廷から幣帛(へいはく:神前の供物。特に、御幣。)を奉られた式内社最高の社格で、府下には数社あるにすぎない。天正の頃(1573-92)までは神域広大、神事も盛んに行われ、近隣七ヵ村の産土神として崇敬された。しかし、戦国争乱などにより衰運に傾き、寛文9年(1669)社殿は旧神域の西北隅にあたる今の社地に移り、同12年現社殿が新しく造営された。現在、本社には主祭神は、天児屋根命(あまのこやねみこと)・建御名方命(たてみなかたのみこと)を相殿に祀り、境内社には八幡神、住吉神、磯良神を祀る東之神社、速素戔鳴尊(はやすさのおのみこと)を祀る須佐神社、宇賀御魂神(うがのみたまかみ)を祀る稲荷神社がある。
名前 |
新屋坐天照御魂神社(西河原社) |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
072-622-4815 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.8 |
周辺のオススメ

新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)。大阪府茨木市西河原。式内社(名神大)三座の論社、旧村社。略称として「新屋神社」とも。主祭神:天照国照彦火明命 (あまてるくにてるひこほあかりのみこと)相殿神:天児屋根命、建御名方命。資料によると、社伝によれば、崇神天皇の御代に創祀されたという(神功皇后の御代に西福井から分祀されたとの説もある)。以降、広大な神域を領する近郷の総社として上下の崇敬を集め殷賑を極めたが、兵乱や太閤検地のために社領を失うなど、天正年間(1573 - 1592)以降次第に衰微したと伝える。また、当初の鎮座地は現在の総持寺であるとの伝えもある(『三島神社名蹟考』所引「三島随筆」)。かつては磯良神社(疣水神社)(茨木市三島丘)の地に鎮座していたが、寛文9年(1669年)、西北の現在地に遷座され、同12年に社殿が造営された。なお、磯良神社は当社の境内社であったが、同社の玉の井(疣水)が痣取りに霊験があるとして崇敬を集めるようになり、ついに社地を譲り独立させたものである。戦後は神社本庁に属している。とあります。参考として、延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座 並名神大 月次新嘗 就中天照御魂神一座預相嘗祭」として記載される式内社(名神大社)である。以下の三社が論社とされ、中でも西福井のものが中心的な神社とされる。新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西福井) - 旧郷社新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市宿久庄) - 旧村社新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西河原) - 旧村社上記の3社は互いに関連しており、西福井から宿久庄・西河原に分祀されたものとも、『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座」と記載されていることから、それぞれが1座ずつに対応するものともみられている。なお、社名にある「新屋」とは一説には「新野」を意味し、古代における新開拓地の意味であるとされる。別の説では主神の邇芸速日尊の名が訛ったものとする。『延喜式神名帳』には「新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大。月次新嘗。就中天照御魂神一座預相嘗祭」と記載されており、3座中の1座が天照御魂神であることが判明する。この「天照御魂神」ついては『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条に、「奉授…摂津国…従五位下勲八等新屋天照御魂神、並従四位下」とある。 また『日本三代実録』同年5月26日条には「摂津国従五位下伴馬立天照神、伴酒着神、並授正五位下」とあるが、摂津国の「天照神」として知られるのは当社だけであり、天照御魂神は既に「従四位下」に叙されているわけなので、この「天照神」は残りの2座中の1座であり、「伴酒着神」が最後の1座であると推定できる。なお、それ以前、『続日本後紀』嘉祥2年(849年)12月15日条に「奉授伴馬立天照神、伴酒著神。從五位下」とあって、これは国名を欠くものの、神名と神階の両者から、当社の伴馬立天照・伴酒着2神に該当することが分かる。すなわち、本来の当社祭神は新屋(坐)天照御魂神 - 名神大社で月次・新嘗・相嘗祭に預る伴馬立天照神 - 名神大社で月次・新嘗祭に預る伴酒着神 - 名神大社で月次・新嘗祭に預るであったと考えられている。なお、神名の「天照御魂」から、本来は当地における太陽神信仰に基づく神社であったとの説がある。これは西福井の新屋坐天照御魂神社を中心に見ると、西河原・宿久庄はそれぞれ冬至における日の出・日の入りの方角に位置し、逆に西河原から見ると西福井は夏至の日の入りの方角に、宿久庄から見ると夏至の日の出の方角にあたっているために、そこから太陽神信仰を導き出そうとするものであるが、太陽神信仰はともかくとして、3社の位置関係をその信仰に基づくものとする点は立証性に欠けるものである。とあります。