千姫の仏殿で静寂を味わう。
本堂の特徴
静かな環境で心穏やかにお参りができるお寺です。
明治時代の遺構が残り歴史的な魅力があります。
覚山志道尼の由緒ある開創の地として知られています。
明治時代の東慶寺には1634年に千姫が寄進した仏殿が現在の菖蒲畑の奥の板碑のあたりに残っていたが、明治維新で寺領を失い修理も出来ずに荒れ果て、雨の日には「本堂の雨漏りがひどくて、傘をさしてお経を読んだ」という状態であった。 その仏殿は1907年に三溪園に移築された。その後、観音堂・泰平殿を本堂とするが、 これも1923年の関東大震災で倒壊する。現在の本堂はその後、1935年に建てられたものである。 本尊は釈迦如来座像。 寄木造の玉眼入りで、仏頭内側に墨書修理銘がある。 それによって1515年に火災があり、かろうじてこの本尊を取出したもののほとんど焼失したらしいことが判った。イワガラミの時期は本堂裏のイワガラミを見るために拝観できるようになっています。
東慶寺について由来 (創建・開山・歴史・特徴 等)・鎌倉時代 1285 弘安八年 東慶寺開創、・開山 覚山志道尼(北条時宗の妻) ・開基 北条貞時(覚山志道尼の子) (九代執権) 鎌倉時代 1285 弘安八年 東慶寺開創、 開山 覚山志道尼(北条時宗の妻) 開基 北条貞時(覚山志道尼の子) (九代執権) 1332 元弘二年 四世了道尼、梵鐘を作る。 1333 元弘三年 後醍醐天皇皇女が護良親王(後醍醐天皇の子)の 菩提を弔うために入寺、五世用堂尼となる。 ・「護良親王は、東光寺(現在の鎌倉宮)に幽閉され、 その後殺害されている。」 これをきっかけに、東慶寺は御所寺、 松ヶ丘御所と称されることとなり、 鎌倉尼五山の第二位に列せられる格式の高い 尼寺になりました。 ちなみに、第一位は、太平寺 (鎌倉市西御門)です。 来迎寺 (西御門)門前に1921年(大正10年)三月に 鎌倉町青年会が建てた「太平寺跡」を示す石碑が 現存している。 太平寺の遺物として現存するものとしては、 本尊の木造聖観音立像の他、本尊を安置していた 仏殿が残る。 この仏殿は太平寺廃寺後、 円覚寺の塔頭、正続院の舎利殿 として移築され、後年国宝に指定されている。 ・戦国時代(安土・桃山時代) 1590 天正十八年 豊臣秀吉は、北条氏を小田原に 滅ぼし、会津に向かう途 中鎌倉に寄り、 東慶寺などの所領を安堵する。 ・ 江戸時代 1615 元和元年 大坂落城後、 豊臣秀頼息女が、千姫(徳川秀忠の娘)の養女 として命を助けられ、 家康の命により東慶寺に 送られ、のちに二十世天秀尼となり、 創建以来の栄華を極めました。 ・1642 寛永十九年 天秀尼、父秀頼菩提のため、雲板を鋳造する。 ・ 明治時代 1871 明治4年 廃仏毀釈の影響により縁切りの寺法は廃止となる。 ・1902 明治35年 尼寺の歴史も幕を閉じました。 ・ 1905 明治38年 建長寺・円覚寺両派管長 釈宗演禅師が入寺し、 荒廃した当寺を復興し、中興開山となりました。 師の高徳ゆえ、 門下には政財界人、哲学者、文化人が多く、 禅を世界に広めた鈴木大拙もその一人です。 鈴木大拙は、のちに当寺裏山に「松ヶ岡文庫」を 設立し、禅文化発展の世界的拠点となりました。 ・墓地には、覚山尼、用堂尼、天秀尼、釈宗演など 歴代住職をはじめ、西田幾多郎、安倍能成、 岩波茂雄、鈴木大拙など各界の有名人が 眠っている。 ・東慶寺は、 女性から離婚できなかった封建時代に、 当寺に駆け込めば離縁ができる女人救済の寺 として明治に至るまでの600年間、縁切りの寺法 を引き継いできました。 ちなみに、江戸時代の妻が、夫から離縁を獲得 する事例で類推すると、東慶寺に妻が駆け込んで から三年後、夫が呼び出されて三行半の離縁状を 書かされたらしい。三行半を手に入れた妻は、 ようやく正式に離縁が認められたことになり、 また再婚する権利を手に入れたのです。~縁切寺三年勤の背景~・江戸時代中期以前に「3年も別居していればもう夫婦ではない」という社会通念が成立していました。 ・妻方からの離縁の申し出に話がつかなかった場合の強行手段として「夫の手に負えぬ場所」への「縁切奉公」があった。 なお、東慶寺では縁切三年奉公と言っても足掛3年満24か月であり、東慶寺が離縁状を取るようになったのは1700年前後である。・東慶寺の寺法離縁の場合は、夫の書く離縁状は東慶寺宛であるので、24ヶ月後に女房が貰うのはその東慶寺宛離縁状の写しに寺役人が「このとおり間違いはない」と添書をしたものである。 東慶寺に残るものは寺法離縁状の本物証文で、書写添書をしたものは残らない。 離婚妻に渡されるからである。~出入三年満二十四ヶ月の縁切奉公について~ 駆込三年勤めの女はタダで実24ヶ月暮せた訳ではない。 駆込女の三格式というのがある。 ①上臈衆格は、御仏殿に花をあげたり、来客があれば挨拶に出るとか、院代の側近くに仕える。あまり働かない。②御茶の間格は、座敷とか方丈の掃除、食事の調味、来客のときはお給仕をするなどである。床とか畳の上で働いている。③御半下格はご飯を炊いたり洗濯をしたり、庭の草取りもするいわば下女である。土間とか庭で働いている。・冥加金によりそれが決まり、1838年(天保9年)の記録では、上臈衆格は15両、御茶の間格は8両、御半下格は4両で、その他扶持料が月に2分2朱、24ヶ月で15両になる。これは上臈衆格と思われるが、少なくとも上臈衆格は24ヶ月で合計で30両を収めることになる。大店の商家の娘、豪農の娘なら実家も支払うことができるが一般庶民にとっては手の届かない額である。 扶持料が三格式のどれにも課せられたかどうかについては史料が無い。・寺入りした女はいろいろな定めに従って生活したが、ことに男子禁制については厳しく規定されていた。(ウィキペディアより参照)
イワガラミの時期に入ることができます。本堂裏手のイワガラミは見事です。
| 名前 |
本堂 |
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| ジャンル |
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| 住所 |
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| 評価 |
3.9 |
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人が少なくてゆっくりお参りできます。