蜆川の歴史を感じる場所。
蜆川跡の特徴
蜆川の歴史がわかる貴重な碑が設置されています。
昔の蜆川や蜆橋の存在を後世に伝えています。
滋賀銀行ビルに埋め込まれた歴史の証が見られます。
滋賀銀行ビルに埋め込まれています。蜆(しじみ)川は曽根崎川・梅田川・福島川とも呼ばれ、堂島川に掛かる大江橋の上流で堂島川から分かれ、湾曲して堂島の西端で堂島川に合流していました。貞享・元禄年間に河村瑞賢によって河川改修が行われ、1685年(貞享2年)に堂島新地(左岸)、1708年(宝永5年)に曽根崎新地(右岸)が拓かれ、米市場や歓楽街として発展。近松門左衛門の『曾根崎心中』や『心中天網島』にも登場していましたが、1909年(明治42年)に北の大火(天満焼け)が発生した際に、瓦礫の廃棄場所となって緑橋(梅田入堀川)より上流側が埋め立てられ、1924年(大正13年)には下流側も埋め立てられて完全に消滅してしまいました。なお、この場所は1863年(文久3年)新撰組の前身となる芹沢鴨ひきいる壬生浪士組が大坂相撲の力士達と道を譲る譲らないで口論となり、最終的には死傷者を出す乱闘騒ぎが起きたことでも知られています。
落語「池田の猪買い」で大阪から池田に行く道中の説明で出てきます。<淀屋橋・大江橋・蜆橋と橋を三つ渡ると、お初天神という天神さんがある>との流れです。淀屋橋・大江橋は現存しますが、硯橋は現存しません。堂島川の大江橋より上流から北側に蜆川(しじみがわ)という川が分岐して流れていました。その川に掛かっていた橋が蜆橋でした。曽根崎川という名前が川の名称でしたが、通称として蜆川と呼ばれていたそうです。川と橋は往時の人の流れ、賑わいの証拠ですから感慨深いです。何気ない街並みにも意味があることを感じさせてくれる場所です。
北新地の筋違いに昔は川が流れていて、その橋を蜆橋と呼んだようです、大阪も戦後川がどんどん埋めたてられ、そこが高速道路になり、又道路になりました❗車🚙の増加に都市がおいつてない証拠ですねぇ❗車製造会社にも一つの問題があります。どこにちょっと出掛けるだけで車🚙ですからねぇ❗日本の国土の狭いのを知っているのか、トヨタの社長等儲けて御殿でも建ててるのでわ。☺️😰😣😵😰😰
かつて流れていた蜆川(曽根崎川)と、架かっていた蜆橋の存在を後世に伝える碑です。明治42年の北の大火で灰燼に帰したこの地域ですが、蜆川はその瓦礫により埋め立てられてしまいました。当時の絵葉書が残っていますので併せて投稿させていただきます。北新地の芸妓、娼妓が大混乱で逃げ惑ったと記録されています。
普通に石があるだけです。橋はないですね。
しじみ橋の解説の碑文は変色、腐食で字が読めないし、周りが物置みたいになっている。
この北新地の当たりはよく知っている積もりでしたが、北新地からいっぼん南側になり、大分前に埋め立てられてますねぇ❗️昔若かりし頃梅新の梅田東映に来て、中村金之助、東千代の助等の股旅をよく見ました。その後飲むようになり北新地も良く歩きました。入るのは上司のおごりですが❗️ソファーとカウンターが値段が違うのも教えてもらいました❗️普通人は寄り付けないです❗️☺️☺️☺️
蜆(しじみ)川、をご存知ですか?大阪中之島に昔もう一本川があったそうです。その名残りがしじみばしの碑です。この川のせいで新地近くの道がいびつな角度になったわけですわ。
建物の壁になっているので、分かりづらいです。
| 名前 |
蜆川跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
〒530-0002 大阪府大阪市北区曾根崎新地1丁目1−49 |
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昔は川と橋があったと思われます。