岩倉城跡で歴史を感じよう。
岩倉城跡の特徴
織田家ゆかりの岩倉城跡、歴史を感じる場所です。
岩倉織田氏の居城、立派な城郭の復元図があります。
車を停める場所はありませんが看板での説明が親切です。
山内一豊の父、山内但馬守盛豊が岩倉城の家老ということで、一豊がここが生誕地と考えられている城です。別説では山内一豊の父である山内盛豊は黒田城主ということで黒田城という説も。こちらの近隣には、神明生田神社の境内に山内一豊生地碑が建てられています。次回は黒田城を訪れたいと思います♪
城の構えは古文書によると東西約90m南北約170mの二重堀であり、館と望楼があったといわれています。文明十年(1478)織田敏定と敏広との間で激しい戦いがあったのち、和議にて織田敏広が「岩倉城」で尾張北部を、織田敏定が「清洲城」で尾張南部を治めていました。天文二十四年(1555)織田信長が「清洲城」城主になったころの「岩倉城」の城主は織田信安・信賢でした。両者は永禄元年(1558)に浮野で戦い信長は永禄二年(1559)に「岩倉城」を落城させ、尾張統一を果たしました。
道路沿いにありました。道路を挟んだ反対側にトイレ、駐車場がありました。近くまで行ったら徐行しながら気を付けて探さないと通過してしまいます。
織田信長が、織田家を掌握していく過程で、攻め滅ぼしたらしいです。清須が勝者の城だとすると、弟が頼った敗者の城。と考えると、扱いが全く違っていることが、興味深いです。
岩倉街道沿いにありますが気付きにくいです。石碑や案内板等がありますが、あまり整備されてません。道路の反対側にトイレがあります。
岩倉城は尾張国丹羽郡岩倉、現在の愛知県岩倉市下本町にあった日本の城で、1479年(文明11年)「織田伊勢守家」当主の織田敏広(または織田信安の代とも)によって築城されたといわれている。標高10メートルの低い台地上に築かれた平城で、東西約104メートル、南北169メートルの規模であり、二重の堀で囲まれた城であったとされている。現在の本丸跡には「岩倉城址」と「織田伊勢守城址」の碑がある。織田伊勢守城址の碑は1860年(安政7年)に建てられたものである。岩倉街道を挟んだ反対側には城跡休憩所があり、公衆トイレがある。
守護 斯波氏の元、守護代であった清州織田と双璧をなした守護代 岩倉織田の城跡です!
織田家ゆかりの岩倉城。ありし日の面影はいずこへ。現在は石碑が立つのみです。(マイナー城跡あるある……)
さすが、守護代織田家の嫡流で上尾張を支配する家格のお城だけあって、案内板にあった復元図を見ると、めちゃめちゃ立派な城郭だったようです。織田信秀や信長の弾正忠家は、下尾張を支配する清州織田家のさらにその下の三奉行のうちの1つだったとのこと。信長は、この岩倉織田家を滅ぼした後、翌年には足利義昭を担いで上洛をはたしています。織田信長の歴史は、内乱と裏切りと敗北と勝利の歴史ですね。たいへんだ💦
| 名前 |
岩倉城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0587-38-5819 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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遺構は見当たりませんが、案内パネルが設置されていて概要は分かります。