愛を感じる帆立貝の古墳。
大神塚古墳の特徴
古代の開拓が感じられる歴史的な場所であることが魅力です。
約50mの全長を誇る帆立貝形の前方後円墳です。
いつ訪れても綺麗にされている愛情を感じるスポットです。
お墓の中にある古墳です。頂上に発見した由緒を刻む石碑があります。中世には城でもあったようです。頂上からは寒川一帯が一望できます。と入っても丘と言えるほど高さなので、簡単に登れます。
やはりこの周辺は古代から開拓の進んだ地域であったことが解りますね。
2020年4月9日自転車で訪れました。小高い丘の上にあるお寺の境内に木に覆われた丸い塚が古墳です。帆立貝型前方後円墳です。寺の境内のため良く保存されています。古墳の上の林もきれいに手入れされています。近くに石棺がある円墳があり公園が作られています。
いつ伺っても綺麗にされており、愛を感じる古墳です。
全長約50m、後円部径約30m、高さ約5mを測る、帆立貝形を呈する前方後円墳。明治時代に発掘され、鏡や刀などが出土した。造られた年代は、出土した遺物から、5世紀前半ごろと考えられています。現在、安楽寺の裏に残されており、見学することができます。
名前 |
大神塚古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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昭和3年の書には、寒川神社の別当であった安楽寺の所属であるとある。前方後円墳の形式に属し、陪塚を3つを有する古墳である。桓武天皇時代につくられた、という伝説があり、其の真否はわからないとある。昭和3年時は、1616年に建てられた大日如来の石碑もあったとあるが、現在はなくなっているようである。墳墓の上に建立されている掘發記念記だけは、当時と同じく残っている。❶【参考 寒川巡り 昭和3年】塚の上に大日如来の石碑がある。これはこの塚に後人が建設したものであろう。とあるが、この場所で撮影されたものを見ても、そのようなものはないようである。富士文庫によると、桓武天皇の延暦19年(800年)富士大噴火の後、富士北口の浅間神社奥の院の御神体、御鏡を奉移してこの地に大塚を造り、これを埋葬した。なお、延暦22年に寒川神社を改造したものだと、伝えているが 果たしてその通りなのかはわからない、とある。[大日如来の石碑]「聞傳相州一宮寒川大神廟(廟の字磨滅)先生之御廟窟(窟の字磨滅)也元和二年(1616年) 壬戌 十月二十一日 大塚山成就院安楽寺 法印善営造立_____________________立て札の後の事が書かれている。1908年(明治41年)に大神塚古墳発掘され、1913年(大正2年)5月26日に坪井正五郎博士(日本初の人類学者)はお亡くなりになっているので、その短き間の話だと思われる。[明治41年の発掘後の話し]今年5月17日 坪井博士、八木壮三郎氏の講演会が開催され、坪井博士は大神塚古墳は遥拝所と断定を下され、築造の時代、埋葬者の身分等について発表された。主塚より極めてわずかの発掘物を得た上から考察すると、すでに何人かのてによって、一度発掘を試みられたらしい。それは和漢鏡の位置や、発掘中の状況、陪塚より発見されたものとの関係などで察せられる。とある。[国学者 増田于信の見解に対する筆者の考え]内務省史跡名勝天然記念物調査員 増田于信(ますだ ゆきのぶ・国文学者)氏(寒川神社誌による)はこの大神塚を以て相模の国造(くにのみやつこ)の塚と断定されてあるが、其の真否は何れにせよ、大化時代の墓に関する勅令に照合すれば、すこぶる壮大なものであるから、国造(くにのみやつこ)でないにしても、地方豪族の墳墓であることを下らない。今しばらく疑問として置くが、とにかく由緒あるものの墳墓らしい、とある。