関ケ原で歴史を感じる。
北天満山・小西行長陣跡の特徴
小西行長陣跡は、関ヶ原での激戦の歴史が刻まれています。
キリシタン大名・小西行長が活躍した証として、保存状態が良好です。
無料駐車場と公衆トイレが完備され、訪問に便利な施設です。
この辺は開戦地で、ここから決戦地を臨むことができます。前方に見える山の麓が石田三成の陣地でした。
日本で最も有名な天下分け目の戦い関ヶ原古戦場跡の一つここは石田三成と同じく文治派の小西行長の陣跡文治派と言う事でこの戦いにおいてあまり活躍は出来なかった様です開戦地に隣接していて同じ駐車場を利用出来ます数十メートル歩くとトイレもあります。
北天満山の裾野を流れる梨木川右岸にある、西田公園付近が「小西行長陣跡」です。ここは、北は北国街道、南は中山道を押さえる重要な場所でした。関ケ原合戦が始まるとともに、6000の米を率いて西軍で戦います。北天満山から烽火(のろし)をあげて味方に開戦の合図をしました。午後になり大谷隊が敗れたとの知らせを受けると、天満山を越えて揖斐郡の春日方面へ敗走したようです。山頂に布陣できるスペースはなく、中腹に布陣したものと思われます。キリスト教信者として知られている小西行長です。自ら命をたつことはできません。豊臣秀吉配下の武将で、洗礼名はアウグスティヌスといいました。一度は敗走するも、その後自首し関ケ原領主であった竹中重門の家来により家康のもとへ送られ、三成らと共に斬首されました。アクセスは、R21松尾交差点より北へ車で2分です。
島津義弘陣と宇喜多秀i家陣に挟まれた池寺池手前の開けた所に有る小西行長陣跡。元々商人であり戦は余りの印象があったのですがWikiでは早くから水軍や大部隊を指揮して肥後半国を治め文禄慶長の役で活躍した、加藤清正隊は2番手で損害は少なかった、戦後徳川家康にむしろ接近するも石田三成の説得と宇喜多家に対する恩、加藤清正との確執で西軍に加わるも朝鮮出兵の影響で2900しか兵を動員出来なかった事も影響し敗戦熱心なキリシタンであったため切腹せず斬首。子孫が戦後プロ野球初代王者松竹ロビンス監督の小西得郎氏とか(自称)
⭐️「北天満山」の小西行長陣跡⭐️⭐️左手には動かない西軍/島津勢、正面に着陣した東軍/筒井定次隊や田中吉政隊と激戦を繰り広げるも、小早川秀秋裏切りにより大谷吉継隊と宇喜多秀家隊の壊滅、そして小西隊も壊滅し小西行長伊吹山に逃避、後に捕縛され京都六条河原で処刑される⚔️⭐️キリシタン大名の代表格、豊臣政権下で石田三成や長束正家と共に重要な文官を務め、堺商人の家から武将と成り大名に、領地は肥後の国/宇土城(熊本城の現存三重櫓/宇土櫓は宇土城からの移築とも)❗️⭐️小西行長陣跡の東側に広い駐車場あり、「開戦地」と一緒に見学可能、更に東側が島津義弘陣跡のある森🌳
小西、島津、宇喜多の陣からも小早川の陣しっかり見えます。石田、島の陣もしっかり見えます。歴史を感じます。
説明書や記念碑以外何も無い印象ですが、駐車場は無料、左手の細道を進んである公衆トイレがウォシュレットで綺麗でした。広場がトイレの前にあります。ゴールデンウィーク中でもガラガラでした。
政治的に優秀な人と思います。しかし、キリシタン大名として先は無かったのではないだろうか。9月15日、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れた。
西軍、小西行長の陣跡地です。豊臣家の家臣として有名を馳せた人物です。関ケ原でも奮戦した方です。
| 名前 |
北天満山・小西行長陣跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP |
https://www.sekigahara1600.com/spot/konishiyukinagajinato.html |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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関ケ原の戦い W西03小西行長陣跡-----説明文より-----小西行長は、宇土城(熊本県宇土市)で肥後(熊本県)半国を領していたが、同じく肥後半国を治める加藤清正と政治的に対立を深めていた。文禄・慶長の役の対立も絡み、これが文治派・武断派分裂の一因とも言われる。文治派の石田三成らが挙兵すると西軍に与した。本戦の当日は、夜明けまでに約6千の兵を率い、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣。午前8時頃に開戦を告げる烽火を上げると、寺沢広高や戸川達安らと戦ったが、攻め込まれ切り崩されてしまう。小早川秀秋の寝返りによって西軍諸隊は動揺し総崩れとなり、小西隊も敗走。行長自身は春日(揖斐川町)方面へ逃走した。熱心なキリシタンで自害できなかったと言われ、19日に関ケ原の庄屋・林蔵主を介して自首し、この地を治める竹中重門の家臣の手で捕縛された。これに出された徳川家康からの感状は、今も関ケ原町に伝わる(小西召捕感状)。林蔵主は、はじめ行長に逃げるように薦めたが、最後には東軍の陣へと送り届けたと伝わる。行長はその後、10月に三成らとともに京都の六条河原で処刑された。