古代東山道の風情、不破の関へ。
不破関跡の特徴
古代東山道の関所であり、歴史的な価値が感じられます。
館長が親切に説明してくれる資料館も近くにあります。
壬申の乱の歴史が息づく、美濃国と近江国の分かれ道です。
古代東山道の関所の一つであり、「不破の道」と呼ばれたこの地の東山道に、壬申の乱の翌年(673年)に関所として設置されました。 関所とは現代で言う検問所であり、人の往来や運搬の出入りを検査する役割を持ちますが、江戸時代ごろになると、関所での取り締まられる重要視は女性の出入り【出女】が主となり、その理由として人質として江戸に住まわせていた大名の奥方が国元に逃げ帰る事によって、幕府に対する謀反が起こらないようにする役割が大きくなった。 よって【通行手形】で本人一致しない限り出入りが禁じられていました。672年に発生した壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)の命により美濃国の多品治によって【不破の道】が閉鎖される。673年、天武天皇の命により、都(飛鳥浄御原宮)を守る為に【不破関・鈴鹿関・愛発関】の三つの関所が設置される。この不破関近辺が壬申の乱の激戦地となっており、今でも史跡となる【自害峰の三本杉】や【黒血川】【矢尻の池】【土塁跡】【関の藤川(藤古川)】【大海人皇子兜掛石】など多数が残る。この周辺の土地『不破郡=関ケ原町・垂井町や大垣市・海津郡・揖斐川町...など)』は何かと歴史の揺れ動く、激動の地で知られる。主に『壬申の乱・承久の乱・青野ヶ原の戦い・関ケ原の合戦』で良く知られます。
関ヶ原駅から徒歩で15分ぐらいの場所に、解説書きがあります。すぐそばの資料館でかつての関所の様子を学び、坂の下にある藤古川まで行くと、なぜここに関所が立てられたのか思いを馳せることができると思います。
民家の庭と間違うかも。けど、変に箱物作るよりはいい。
古い関所跡です。今、この辺りは住宅地となっております。その昔、京都から中山道を通り、ここ不破の関に着くと、「あぁ思えば遠くへ来たもんだ...」と感じたことでしょう。それこそ古代の境ですから、旅情を誘う地です。
以前から何回も通過していた美濃不破関。ブラタモリを見て、行ってみたくなり訪問~👣。不破関資料館へ行き、ふむふむと勉強すると、壬申の乱勃発で不破道を塞ぎ、乱後、三関(伊勢鈴鹿、越前愛発、美濃不破)を定め、この関から東を関東、西を関西と呼ぶ様になったとのことでびっくり😲。
8.近江路・不破の関・大垣【芭蕉自筆影印】①野ざらし紀行文やま登より山城を經て 近江路尓入て美濃尓至る います山中を過て い尓しへ常盤の塚有 伊勢の守武可云介る よし朝殿に似多る秋風と盤 いつ禮の所可似多り遣ん 我毛又義朝の心尓似多り秋の風不破秋風や藪も畠も不破の関大垣尓泊り遣る夜ハ 木因可 家をあるし登す 武蔵野を出る時 野さらしを 心におもひて 旅立遣禮者志尓もせぬ旅寝能果與秋の暮(やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る。います山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武が云ける、よし朝殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又、義朝の心に似たり秋の風不破秋風や藪も畠も不破の関大垣に泊りける夜は、木因が、家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを、心におもひて、旅立ければ、しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮 )【句碑】①不破の関跡岐阜県不破郡関ヶ原町松尾148秋風や藪も畠も不破の關②いにしえの常盤の塚(常盤御前の墓)岐阜県不破郡関ヶ原大字山中534若宮神社付近Google Maps義ともの心耳似多里秋乃可世(義ともの心に似たり秋のかせ)(義朝の心に似たり秋の風)③詠地付近になし(死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮)《施設・句碑拡大写真はgoogle検索「芭蕉句碑の解読」》
石碑などがわずかに残されている。
個人の敷地内?なのか、中には入らず、関守跡の標柱のみ見学しました。
特別みるものは無い。
名前 |
不破関跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
058-272-1111 |
住所 |
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HP |
http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/17768/siseki/fuwano.html |
評価 |
3.6 |
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民家の入り口のようなところに石碑と看板が立っています。歩道がないのでゆっくり見るときは車に注意。