弘文天皇祭る神社、歴史を感じる参拝。
藤下若宮八幡神社の特徴
弘文天皇を祭神とする歴史ある神社です。
東海道新幹線が近くを走り、アクセス良好です。
藤古川を挟んだ歴史的な対陣の地に位置しています。
壬申の乱で敗れた弘文天皇は近江で自害した。天武天皇の軍が近江から御首級(みしるし)をもちより、天武天皇が首実験しその後里人がこの地に葬りったとつたわる。また、山之神と称して山の下に八幡宮として祀りたりと伝わっている。その八幡宮がこの社である。明治8年 県権令の小崎利準氏が教部省に提出した櫛田道古の 考證書には 近江の国の御陵はおそらくは御躰を葬りたてまつり、此の藤下の自害峯は御頭を葬りたてまれるとある。❶【参考 若宮八幡宮 関ケ原町史 1993年】若宮八幡宮祭神は弘文天皇であると考えられる。当社の山上に自害が峯と呼ばれる地があり、そこに杉の古木と石仏2体があって山神として祀られているが、実はこの場所こそ壬申の乱にやぶれ、近江の山前で自害した弘文天皇の首級(しるし)が葬られていると伝えられている。この山神と若宮八幡宮にはともに弘文天皇が祀られている、と伝えられている。(「新撰美濃志」や「美濃明細記」、「若宮八幡社井山神縁由記」による)当社の御神体は白石であるという。創立年月は不詳である。が「若宮八幡社井山神縁由記」によると元応2年(1320年)8月15日 弘文天皇を祀る応永11年(1404年)と明応9年(1500年)に社殿を修繕した。天文21年(1553年)棟札のうつし「御宮移廣惣寺宗本」とあり、廣惣寺の宗本という僧侶が遷宮導師となったことがわかる。「村社八幡神社棟札目録」明治8年に教部省は自害峯の山神の地を弘文天皇の御陵とするかの調査をしたが、結局近江の長等山の地が御陵に指定された。[鎮座地] 藤下字害峯[祭神] 弘文天皇[例祭日] 「美濃国各村略志」9月15日 となっているが、10月2日である。(1992年現在)
創立年紀不詳。里伝ふ、大友皇子の御佳墓なりと云ふ。日本書紀持統天皇紀曰く、白鳳元年云々秋七月美濃軍将等與大倭祭豪共誅大友皇子伝頭詣不破宮大日本史日村國男依等軍千栗田岡下撃犬春五千君谷?手斬之帝大友敗走自縊男依獲首與諸将詣不破宮献之此の外百茎根塘叢及新撰美濃走等不破郡藤下村若宮八幡社は大友皇子之霊社とあり。依之見之。弘文天皇之御首を男依等持来りて天武天皇にささげ後此の地に葬し奉りしことなるべし。
4/25参拝裏手に東海道新幹線が走る。
岐阜県では近くの山中若宮八幡神社と同じく弘文天皇(大友皇子)を祭神とする数少ない神社です。檜皮葺の本殿が町の重要文化財に指定されていますが、鞘堂に納まっているため直接拝むことはできませんでした。なお社号標は約200m北の旧中山道沿いに離れて建っています。
藤古川を挟んで 西側に大友皇子(弘文天皇) の軍、東側に大海人皇子( 後の天武天皇) の軍が対陣していた。この藤下、 山中 集落は 川西にあたるため 壬申の乱後に この集落の村民が 、弘文天皇を 応援していたため ここに祀ったと言われています。弘文天皇は第39代天皇。明治3年に諡号を贈られ、天皇として認められたが、即位したかどうか定かではない。
大友皇子を祀る。裏手の山には自害した大友皇子の首が葬られたという伝承があります。
名前 |
藤下若宮八幡神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.sekigahara1600.com/spot/toge-wakamiyahachimanjinja.html |
評価 |
3.6 |
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弘文天皇(大友皇子)が祭られています。大友皇子(天智天皇の子)は壬申の乱において大海人皇子(天智天皇の弟)に敗北し、自害し、崩御なされたそうです。ちなみに弘文天皇の子孫には、一条天皇以降の天皇や藤原道長などがいるそうです。