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名前 |
喜岡寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.2 |
山院寺号 栄松山不二院喜岡寺宗派 古義真言宗御室派(屋島寺末寺)本尊 旧木田郡誌には不動明王木仏坐像、脇仏今伽藍童子、制達迦童子とあります。高松市誌には千手観音(伝智証大師の作)とあります。創建 寛喜元年(1229年)開基 僧覚行旧木田郡誌には「紫雲山代々記には当寺は人皇第五十三代、淳和天皇な天長六年九月建立とあれど其の化確証なし、寺伝によれば人皇八十六代後堀河天皇の寛喜元年僧覚行の開基にして始めは常光寺(浄光院)と称し此処より東北約一、二町の平地にあり。中比細川顕信公、深く当寺の本尊ご信仰あり。」とあります。南北朝の頃、この寺に接して讃岐守護船木頼重(通称高松二郎)が城(高松城、喜岡城)を構えていました。建武二年(1335年)十一月、足利側の細川定禅から奇襲を受け落城しました。この時に当寺も兵火にかかり堂宇や古文書、宝物等々も焼失しました。その後当寺は、船木氏の子孫がこの地に復帰してから菩提寺として堂宇を改修し香華院としました。その後、その後天正時代になり頼重の子孫、船木頼邑(左馬頭)は土佐の長曽我部元親に従い、豊臣秀吉に反抗したため天正十三年(1585年)四月ニ十六日に秀吉の四国討伐軍、宇喜多秀家、仙石秀久らに喜岡城を包囲され、城主頼邑以下二百余名の将兵が奮戦のあげく全滅したと伝えられています。この時に香華院も焼失したようです。その後文禄三年に郷内の総檀那が相謀り喜岡城跡地に移し再建した後に現在の寺号に改めました。当寺には高松左馬之助頼邑、唐人弾正弘武、片山志摩俊秀の墓と位牌が大切に祀られいるそうです。小さな寺院ですが見所も多く兵どもが夢の跡と感じさせてくれる場所でした。