歴史の宝庫、城台城跡でひと息。
大島城跡の特徴
三日月堀や石垣など、遺構がしっかり残る大島城跡です。
大島城跡は武田信玄ゆかりの歴史ある城で、マレットゴルフ場も完備しています。
静かな公園内を散策しながら、城の歴史を楽しむことができるスポットです。
武田信玄によって大修築された城台城(490m/50m)遺構:石垣,土塁,郭,堀,井戸城主:大島氏・武田氏歴史:築城年代は定かではないが大島氏によって築かれたと云われる。 大島氏は船山城主片切為行の八男、八郎宗綱が大島郷を分知され大島氏を称したのが始まりとされる。元亀2年(1571年)武田信玄は飯田城代であった秋山信友に命じて大島城を普請させ、高遠城とともに伊那の拠点とした。天正10年(1582年)織田信忠率いる織田軍が飯田城を落とし大島城に迫ったが、城兵は戦わず城に火を放って逃亡し落城する。説明:大島城は天竜川に面して東側に突き出すような台地の上に築かれており、現在は台城公園として整備されている。大島城は天竜川に面した東端に本丸、西に二の丸、三の丸と配した縄張りで、二の丸、三の丸の西側にはそれぞれ馬出を備えている。三の丸の西にある馬出は民家の敷地になっているが、外側には二重の三日月堀が現存する。二の丸の西にある馬出は、三角形の小郭から三の丸に対して斜めに土橋が架かる珍しい構造をしている。大島城(490m/50m)文化財指定:町指定史跡遺構:石垣,土塁,郭,堀,井戸城主:大島氏,武田氏歴史:築城年代は定かではないが大島氏によって築かれたと云われる。 大島氏は船山城主片切為行の八男、八郎宗綱が大島郷を分知され大島氏を称したのが始まりとされる。元亀2年(1571年)武田信玄は飯田城代であった秋山信友に命じて大島城を普請させ、高遠城とともに伊那の拠点とした。天正10年(1582年)織田信忠率いる織田軍が飯田城を落とし大島城に迫ったが、城兵は戦わず城に火を放って逃亡し落城する。説明:大島城は天竜川に面して東側に突き出すような台地の上に築かれており、現在は台城公園として整備されている。大島城は天竜川に面した東端に本丸、西に二の丸、三の丸と配した縄張りで、二の丸、三の丸の西側にはそれぞれ馬出を備えている。三の丸の西にある馬出は民家の敷地になっているが、外側には二重の三日月堀が現存する。二の丸の西にある馬出は、三角形の小郭から三の丸に対して斜めに土橋が架かる珍しい構造をしている。
公園として整備されている。武田家当時の築城の様子が非常に良く分かって素晴らしい。城全体はかなり広く大きな城郭だった様です。また、井戸がかなり下の方にあり、当時は水を城内に運ぶのは、大変だった様です。
台城公園内にあること大島城跡駐車場は広く案内板も出ています公園内はマレットゴルフ場のコースがあちらこちらにそして公園内を散歩して本丸まで行きましたが途中の遊技場を含め誰とも会いませんでしたお城は簡単に場所の案内などは有りますが歴史的説明などはなく調べてから行った方が良いです。
【織田武田甲州征伐の武田軍に関連あり】飯田城放棄を聞いた武田信廉(勝頼の叔父)らは戦意喪失。大島城(下伊那郡松川町)での抗戦は不可能とし、大島城から逃亡する。
電車に乗り、山吹駅からから歩きました。15分くらいですが、城が台地の上にあるので、けっこう疲れます。遺構はしっかり残り、見応え十分。三日月堀の馬出に民家があります。
信玄末期の大きな土の城。台城公園内にある。駐車場付近に縄張り図を書いたパンフレットがあり、それを参照しながら歩ける。市民公園としても利用されていて、ゲートボールのコースなどがある。
とても好きな城跡です。
二重三日月堀が最高のお宝♪( ☆∀☆)駐車場にトイレに無料パンフレットといたれりつくせりな史跡♪丸馬出にお宅、桝形虎口に小屋があるのが現代城跡あるある(^o^;)タッッッップリな遺構は城好きのパ〰ラダイス♪
熊が行ったらしいので気をつけて。
名前 |
大島城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0265-34-0733 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.4 |
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三日月堀など意外としっかり残っている。中は公園になっています。信長侵攻時に武田信廉は戦わず逃げたとか。