中山道歴史探訪、戸田の渡船場跡。
中山道戸田渡船場跡の特徴
中山道の名残を感じる、戸田の渡船場跡地です。
荒川の渡船場跡に記念碑が立っているのが特徴です。
サイクリング途中に立ち寄る穴場スポットとして人気です。
中山道の中、荒川の渡船場。三百年近く続いた交通の要衝です。このあたりに立つと橋のありがたみを感じずに入られません。。。
旧中山道、戸田渡。
⊂(・ε・`)ノシ.:∴
中山道(R17)をサイクリングして荒川を戸田橋で渡ると両端に江戸時代の名残の戸田の渡船場の記念碑があります。
戸田の渡しの戸田側にある渡船場の跡地です。17号線ヘ合流する車の往来が激しい道路の脇に、石碑が立っています。昔は、幕府公認の河岸問屋が5軒もあり、栄えたようですが、明治時代に戸田橋が開通してその役割を終え、今は当時の面影もありません。
ここは(多分)地図やナビにも載らない場所故に、マニアの人からしたら穴場になるかな?ちなみに、戸田橋を渡った反対側にも石柱があるんでレッツ探索w
中山道は板橋宿から浮間舟渡を経て現在の戸田橋の脇に戸田市が中山道の街道で渡し場があった場所とその当時渡し場の人家や人口、渡し場の取締り役や人足、渡し船の数等を書いた掲示板を交番脇に掲示している。そこから荒川の土手沿いに道路が東方向に50mほど進むと、当時の戸田渡し場位置石柱と案内板が立っている。この辺りは交通量が多いのでここまでの戸田橋からの歩行には十二分注意が必要です。この掲示には中山道の蕨に向かっての街道であろう道筋がわずかながら記されている。又この地点から直線で70mくらい街道とおぼしき場所の一角に小さな公園の脇にも掲示板が立っている。ここにはこの先蕨宿迄の道筋のおおよそが表示されている。中山道に興味をお持ちの方は、一度立ち寄ってみては。
戸田渡船場跡記念碑。
名前 |
中山道戸田渡船場跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
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案内板と石柱が立っている。荒川は当時「戸田川」と呼ばれていて、幕府が戸田川への架橋を禁じていたので、渡し船による往来があった。渡船は大水が出ると川留めで、平水時も日の出から日の入りまでであった。天保13年(1842年)の『中山道戸田渡船場微細書上帳』には、総家数46軒、人口220人余(うち、船頭8人、小揚人足31人)、渡し船数13艘(うち、馬船〈馬を運ぶ船〉3艘、平田船1艘、伝馬船1艘、小伝馬船8艘)とある 。最も大きな馬船の長さは9間9尺(17m)、幅は9尺(2.7m)で、馬を4疋乗せることができた。渡船賃は、平水時には人3文・馬12文、中水時人6文・馬18文、出水時人12文・馬24文、武家、出家、公用飛脚などは無賃だった。大通行となるときは、近隣の下笹目村や浮間村から馬船を徴発した。渡し船の権利は北岸の下戸田村が握っており、渡し場管理の川会所は戸田側に設けられていた。渡船は明治8年(1875年)の木橋架橋まで続いた。この木橋は民間の資金で架橋したもので、架橋場所は渡船場と同位置、長さ約136m、幅約4m、通行は有料で渡船時代より高かった。またここには河岸場も併設されていた。創設は元禄8年(1695年)とされており、安永元年(1772年)には幕府公認の河岸場となった。天保3年(1832年)には5軒の河岸問屋があり、荒川船運の一大拠点として機能していた。浮世絵師・渓斎英泉が「木曾街道 蕨之駅」の風景として選んだのはこの「戸田の渡し」である。