信長の甲州征伐の足跡。
一夜の城跡の特徴
土塁に囲まれた歴史的な城跡で、訪れる価値ありです。
織田方の陣城としての由緒ある背景が魅力的です。
城の虎口近くで発見された巨大な堀が興味をそそります。
織田の軍勢が武田攻めの際に一夜で築いた土塁のほんの一部が残っていて、それが見られます。白い案内標識がなければそれとは気づかないと思います。それくらい僅かです。
ぐる~り土塁でかこまれてる♪..畑(^-^;天正10年(1582)に築かれた織田方の陣城..の説と 土豪の館..説..そりゃあ織田説のほうが話題になるネ♪明治時代は貝沼学校があったそうなっていつの時代の土塁なんだか(~_~;)?
パットしません😅
かつては方形の土塁が残っていたが、現在は東側などの一部が残っているにすぎない。織田氏による甲州攻めのうち、高遠城を攻める際に一夜で築いたとされるが、実は貝沼近辺を領していた土豪の館であろう。実際にこの周辺には小規模な館跡が数多く残っている。
【高遠攻め 織田信忠に関連有り】一夜の城とは言われていたものの、城の入り口にあたる虎口(こぐち)側で巨大な堀が見つかったと発表した。四方を堀で囲まれていたとし、一夜で築かれた城ではなかった可能性が強い伊那市教育委員会は7日、戦国時代、織田軍が高遠城(伊那市高遠町)を攻めるため築いたとされる「一夜の城」(同市富県貝沼)の発掘調査で、城の虎口(入り口)がある東側で新たに巨大な堀が見つかったと発表した。既に見つかっている北、西、南側と合わせ、城を取り囲むように四方に堀があったことが判明。急ごしらえの一時的な城では考えられない堅い守りであることが分かってきたことから、市教委は「一晩で築かれた城」ではなく、地元の豪族などが使っていた城を本陣として使用した可能性が高いとの見方を強めた。この城には堀がないと考えられ、一時的な「陣城」とされてきたが、市教委が2012年に行った発掘調査で、約50メートル四方の土塁の外側に堀があることを確認。堀には幅を広げた改修の痕跡も見つかった。こうした改修は鉄砲が使われるようになって増える傾向があるとし、この城がもともとは豪族などの城として長期間使われていたことを示す証拠の一つとされた。今回の調査では、東側の2カ所で試掘を実施。幅8・5メートル、深さ2・7メートルほどの堀が見つかった。赤土と黒い土が重なる層があり、赤土の地面を掘って堀を築き、後に黒い土がかぶさったと推測。最深部には堀の幅を広げた改修の痕跡とみられる角度の異なるくぼみも確認された。学芸員の濱慎一さん(40)は「今回の調査結果からも、一夜で築いたという可能性は低く、そのことが裏付けられた」としている。また、織田信長の一代記「信長公記」には「貝沼原で陣取った」という記述があるが、「織田軍がいたという証拠も見つかっていない」と指摘した。濱さんは「兵士たちは土鍋を持ち歩くため、三河地方で作られた土鍋が出てくれば証拠になる。もし5万の軍勢だとすれば、この城には入りきれない。周囲に野営した痕跡などが残るはず」と推測。「一夜で築かれた城ではないかもしれないが、この辺りでは一番強固な城。本当に織田軍が陣取ったかどうか調査が必要」と話している。いうのが2017年4月7日時点での調査発表。
信長の甲州征伐にあたって、織田氏が構えた付城。陣城だろう。
| 名前 |
一夜の城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
2.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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一夜の城遺構:土塁城主:織田信忠歴史:天正10年(1583年)織田信長の嫡男信忠を大将とする織田軍が信濃へ侵攻し、武田信玄の五男仁科盛信の籠もる高遠城に迫った。信忠は盛信に降伏を勧告したが、盛信はこれを拒否、信忠はこの一夜の城に本陣を構え高遠城を攻撃したという。高遠城はわずか一日で陥落し、仁科盛信は自刃して果てた。説明:一夜の城は宮花八幡神社の東側に築かれている。一辺50m程で方形に土塁が巡っており、東の道路に面して虎口がある。虎口付近は石積がなされており、この部分に標柱がある。