美浦の景色に刻む黒坂命の遺言。
大塚1号墳(黒坂命 弁天塚古墳)の特徴
黒坂命が美浦を愛した歴史が感じられる場所です。
遺言に秘められた思いを辿る散策が楽しめます。
常陸風土記に描かれた文化の息吹を味わえる史跡です。
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名前 |
大塚1号墳(黒坂命 弁天塚古墳) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
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『常陸風土記逸文』によると、黒坂命は東北の蝦夷平定の遠征の途中で美浦の景色が気に入り、「もし私が亡くなった時はこの地に葬ってほしい」と遺言を残した。凱旋の途中、茨城県多賀郡十王町黒前山で病死。県北部の堅破山山頂に鎮座する黒前神社に祀られた。遺体は遺言に従い「輪轜車」で黒前山から美浦に送られた。葬送の飾りは赤や青など五彩の旗がひるがえり、雲が飛ぶように見えたり虹が輝くように見え、野原や道も美しく輝いて見えたという。当時の人はその様子を「幡垂(はだしで)の国」と呼び、後世、美浦村の地を「信太(垂・しで)の国」というようになったと記されている。黒坂命が、土蜘蛛(朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称)を討つために茨で城を築いた、または茨で土蜘蛛の住居穴を閉鎖したことにより、「茨城」の名が起こる。 1847年(弘化4)に古墳の中腹にあった稲荷社を塚上の弁天社の隣に移動したときに石棺が発見された。江戸時代末期の国学者色川三中が「黒坂命墳墓考」として記録した。『黒坂命墳墓考』の記録によると、箱式石棺は縦十尺九寸、横四尺四・五寸あり、石棺の中から遺骸のほか五尺余りの剣一振り、四つに折れた剣、ほぼ形そのままの甲冑、石鏡、青銅鏡などが残っていたが、現在では出土品の数々は行方不明となっている。筑波大考古学研究室の調査で、古墳の形態から古墳時代中期前半の円墳とされる。