美浦の景色に魅せられて。
大塚1号墳(黒坂命 弁天塚古墳)の特徴
黒坂命が美浦を愛した歴史が感じられる場所です。
遺言に秘められた思いを辿る散策が楽しめます。
常陸風土記に描かれた文化の息吹を味わえる史跡です。
周りの木々がなかったら、霞ヶ浦など望めて当時の感じが掴めるかもしれませんね。
なかなか立派!
黒坂命の奥津城というのは江戸時代の色川三中が主張しているだけで、とくにそういう伝承はないのです。昔は霞ヶ浦の水位も高かったので島になっていたはずで、琵琶湖の竹生島に模して厳島神社が祀られているとおもわれます。
墳主は黒坂命と推定される。大型の円墳径(52m・高さ7.8~8.1m)で、弘化4(1847)年、塚の中腹の稲荷社を塚上に移す際に箱式石棺が発見された。中には遺体とともに朱も残り、鏡・剣数十振・甲胄一組・などが副葬されていた。江戸時代の国学者・色川三中は「黒坂命墳墓考」を著し、陸奥征討の帰路に多珂郡の角枯山(日立市黒前山)で病死した黒坂命の墳墓であろうと考察した。黒坂命といえばご存じのとおり「茨城」の地名の由来を作った人物で、茨城県人ならば誰一人としてお墓に足を向けては眠ってはいけないほどの偉人です(まさかしてないですよね?)。黒坂命は、陸奥征討へ出発する際に通りがかったこの地の景色がとても気に入って「俺が死んだからここに葬ってくれよ」と言ったそうです。その遺言のとおり、遺体は黒前山から美浦まで運ばれましたが、葬行の輪轜車から色とりどりの旗が翻る様子から、この地方を「幡垂(はだしで)の国」、後世になって「信太郡」と呼ぶようになったそうです。
『常陸風土記逸文』によると、黒坂命は東北の蝦夷平定の遠征の途中で美浦の景色が気に入り、「もし私が亡くなった時はこの地に葬ってほしい」と遺言を残した。凱旋の途中、茨城県多賀郡十王町黒前山で病死。県北部の堅破山山頂に鎮座する黒前神社に祀られた。遺体は遺言に従い「輪轜車」で黒前山から美浦に送られた。葬送の飾りは赤や青など五彩の旗がひるがえり、雲が飛ぶように見えたり虹が輝くように見え、野原や道も美しく輝いて見えたという。当時の人はその様子を「幡垂(はだしで)の国」と呼び、後世、美浦村の地を「信太(垂・しで)の国」というようになったと記されている。黒坂命が、土蜘蛛(朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称)を討つために茨で城を築いた、または茨で土蜘蛛の住居穴を閉鎖したことにより、「茨城」の名が起こる。 1847年(弘化4)に古墳の中腹にあった稲荷社を塚上の弁天社の隣に移動したときに石棺が発見された。江戸時代末期の国学者色川三中が「黒坂命墳墓考」として記録した。『黒坂命墳墓考』の記録によると、箱式石棺は縦十尺九寸、横四尺四・五寸あり、石棺の中から遺骸のほか五尺余りの剣一振り、四つに折れた剣、ほぼ形そのままの甲冑、石鏡、青銅鏡などが残っていたが、現在では出土品の数々は行方不明となっている。筑波大考古学研究室の調査で、古墳の形態から古墳時代中期前半の円墳とされる。
| 名前 |
大塚1号墳(黒坂命 弁天塚古墳) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
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茨城の地名を造った人です😲🙏