神秘的な丹波国分寺跡。
丹波国分寺跡の特徴
明智光秀の丹波侵攻と関わりがある遺跡である。
奈良時代の聖武天皇の発願で建立された歴史的名所。
周辺の狭い道は大きめの車には不便な立地である。
奈良時代の国分寺の様子がよく残っています。発掘が進み、近い将来、公園としての整備がなされるとのこと、楽しみです。
田んぼの中にある遺跡かな。農道が狭くて、入りづらいですね。
聖武帝の御世まで遡るような、創建時を偲ばせる遺構は遺っておらず、近世の再興によるとの由。それでも口丹波の台地上に縮小されながら残った伽藍は、律令時代に当地にも花開いた奈良仏教の後裔たることを、ささやかに誇示しているようにも窺えます。
明智光秀の丹波侵攻の際に、亀山城築城のため国分寺の建物を破却し用材として持ち去ったともいわれる。
とにかく道が狭い為、大きめの車やセダンで訪れるには大変不便です。車で訪れるのであれば近くの駐車場、桜公園、または和らぎの道に車を止めてから訪れる事をおすすめします。
丹波国分寺跡(たんばこくぶんじあと)は、奈良時代、聖武天皇(しょうむてんのう)の発願によって全国に建立された国分寺の一つです。出土した瓦などから9世紀初頭までに伽藍が整えられたと考えられています。戦国時代、織田信長(おだのぶなが)の命を受けた明智光秀(あけちみつひで)の進軍の兵火により焼失しました。また、山門は丹波亀山城の雷門として移築され、に また毘沙門天は亀山城内に鎮守されたと伝わっています。現存する本堂は、村人の寄進により、1774年に再建されたものといわれています。唐破風造の屋根周辺の龍の彫刻等が素晴らしい建築物です。建築時の彩色を再現されたら、かなり素敵になる可能性があるあります。なお、以下が文化財に指定されています。重要文化財(国指定)木造薬師如来坐像(彫刻) 平安時代後期の作ですが、非公開です。国の史跡丹波国分寺跡 附 八幡神社跡1928年2月17日指定、2006年1月26日に史跡範囲の追加指定(寺域ほぼ全域)、2017年10月13日に史跡範囲の追加指定(既指定地南側)、2018年2月13日・2018年10月15日・2019年2月26日に史跡範囲の追加指定。亀岡市指定文化財有形文化財国分寺本堂・山門・鐘楼(建造物) - 1992年5月12日指定。旧呉服町火の見の鐘(工芸品) - 1970年3月31日指定。天然記念物国分寺境内地イチョウ丹波国分寺跡のカゴノキ丹波国分寺跡のムクノキなお、車で行く場合、途中の道が大変狭いので、注意が必要です。また、駐車場のスペースは、はっきりせず、舗装もされていません。車の底を擦るガタガタ道です。車高の低い車は、注意ください。関連人物 明智光秀、丹羽長秀、織田信長、荒木氏関連資料 「桑下漫録」、「盥之魚」、引原茂治「丹波における明智光秀の「善政」について」、「京都府埋蔵文化財論集 第7集」案内板 あり問合せ先亀岡市文化資料館 電話番号:0771(22)0599
神秘的な場所ですね。静かや。
天平から現存する建物は何もありません。礎石など当時のものが良く保存されています。付近は田畑しかなく、愛宕山がきれいに見えます。のどかで当時を想像するのもまた一興です。境内にある何本かある巨木がすばらしいです。後世に建てられた正門と脇の崩れた土塀がまたたまらんですねぇ♪
丹波国分寺は田んぼの中に在り、国分寺が見えていても、田んぼのあぜ道ばかりで、国分寺へ通じる道を見つけるのが難しい。尚、地元民は「丹波国分尼寺跡は草だらけでもう解らない」と言うので行くのをあきらめた。
名前 |
丹波国分寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.1 |
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何とも不思議な居心地の良さに包まれた空間でした。廃寺ながら、整然と。門から覗くお葉付き銀杏が一際目を引きます。