源義賢の館跡で歴史の息吹を。
大蔵館跡の特徴
源義賢の居館推定地として歴史的価値が高い場所です。
土塁や堀の遺構が現存し、歴史を感じられるスポットです。
木曽義仲誕生の地で、歴史のドラマを体感できる魅力があります。
木曽義仲の父である源義賢の館跡です。現在は無人の神社になっていますが、空堀や土塁の一部が残っています。木曽義仲はこの地で生まれたそうです。間もなく一族の争いの中で源義賢は甥の源義平に討たれ、義仲は木曽へ落ち延びてそこで成長しました。木曽義仲が討たれた際に鎌倉にいた義仲の嫡男・木曽義高は、この大蔵館を目指して逃避行をしている最中に狭山周辺で追手に討たれたのではないかと言われています。
武蔵で勢力を伸ばしていた源義賢の館があった場所とされる。後にこの地で起きた大蔵合戦(源氏の嫡流争い)で悪源太こと源義平に滅ぼされ、わずか2歳の義賢の息子駒王丸(後の木曽義仲)は信濃へ逃げ延びる。
現在では大蔵神社となっている源義賢の居館推定地。木曽義仲の出生地とも。駐車場が無いため、源氏三代供養塔の駐車場などを使用しなければなりません。神社周辺にも幾つか遺構らしきものが散見できます。
源義賢の居館があった地。木曽義仲の出生地とも言われる。周辺に駐車スペースがない上、正面の道路も路駐するには交通量が多い。義賢の墓などの近隣駐車場に停めるのが一番近いかな?
単郭の館跡のようで大蔵神社の周囲に土塁が残ります。
(大蔵館)鎌倉街道上道の通っていた大蔵に館を構えていたのが、源義賢(みなもとのよしかた、源頼朝の叔父にあたる)。その義賢が館の西方の鎌形に下屋敷をもうけていて、小枝御前に生ませた駒王丸(木曽義仲)の産湯の清水が鎌形神社にあるそうです。(菅谷館)都幾川を挟んだ反対側(北側)に、畠山重忠の館・菅谷館があります。大蔵合戦で、「悪源太」こと源義平に命じられて攻め込んできたのが重忠の父・畠山重能(はたけやま しげよし)です。それぞれ、主が住んでいた時期は違いますが、当時の源氏の内部での勢力争いの舞台として、対照的な位置関係です。
2020/12/6なかなかの土塁と浅くなった堀が現存している。期待していなかったので、びっくりした。周囲は発掘調査が進んでおり、伝承に近い遺構が出ているらしい。大倉神社から義賢の墓に行く道路脇にも、土塁の残欠と案内板がある。
木曽義仲が小さい頃住んでいた館跡近くに父、源義賢のお墓もあります。
多少遺構が残っていますが、説明板によると大蔵館創建時とはだいぶ変わっているとのこと。この辺は平安時代末期から戦国時代の後期まで幾多の戦乱が起こりこの館も改良して利用された筈との記述がありました。
| 名前 |
大蔵館跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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嵐山史跡の博物館で企画展を見学した後、ここにきました、着いた時には、周りが暗くなっており、状況が見えにくかったです、大蔵館に関する説明板もあり、非常に勉強になります、ここは、神社になっていました、今度は、明るいうちに見学したいです。