山腹に佇む天児安神社の神秘。
天児安神社の特徴
山に囲まれた日蔭の谷間に鎮座し、自然に溶け込んだ神社です。
御祭神は木花開耶姫命で、由緒ある神聖な場所です。
秩父郡東秩父村に位置し、街道脇から訪れやすい立地です。
天児安神社(あまこやすじんじゃ)御祭神 木花開耶姫命由緒皆谷(かいや)の地名は、山に囲まれた日蔭になる谷間の意に由来しています。「関八州古戦録」によると、天正年間(1573~1592)小田原北条を討つため、豊臣秀吉は前田利家の軍勢を東山道から関東へ向かわせました。そのころ北条方の松山城主上田憲定は小田原城に立て籠り、松山城は城代山田伊賀守以下五千余名の家臣が守っていましたが、七万の前田軍には勝ち目もなく、無血開城となりました。憲定は小田原城落城後、単身松山城にたどり着いたものの、すでに城は敵の手に落ち、やむなく東秩父の御堂村の日蓮宗浄蓮寺へ逃れ、かくまわれました。浄蓮寺は上田能登守が病気平癒を祈願して以来、所縁のある寺で、「新編武蔵風土記稿」にも「病悩たちどころに平癒することを得たり、夫(それ)によりて松山の一族悉く改宗して浄蓮寺の檀那となる」とあり、松山城と深い関係がありました。しかし、浄蓮寺は黒印地を受けていたため、長くはかくまえず、憲定は寺との関係を断って小川の曹洞宗大梅寺の檀那となるとともに、浄蓮寺に祀ってあった運慶作と伝える一尺一寸の鬼子母神像を持って、御堂村から、嘗て家臣であった関口忠左衛門を頼り、皆谷村に移って曹洞宗光官寺を建立し、境内に鬼子母神社を建てました。これが天児安神社の創建です。憲定は苗字も上田姓から関口姓に改め、関口忠左衛門は自らの居屋敷を明け渡し、後へ退いて幕府の目を逃れました。明治になり、神仏分離によって天児安神社は光官寺から離れ、隣接地に境内を設け、天児安神社と社号を改めました。(「境内案内板」より)一間社流造り見世棚の本殿内には、彩色の鬼子母神立像が祀られています。この神像の台座には、「南無妙法蓮華経・鬼子母神」と、彩色・再興年紀・施主名があり、宝永七年(1710)に塗り替え、安永九年(1780)に再興、更に嘉永二年(1849)に塗り替えられたことが判ります。(「埼玉県の神社」参照)「鬼子母神信仰」鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっています。もともと鬼子母神信仰は平安朝の昔から一般的な信仰としてありました。その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母とよばれ、王舎城の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。お釈迦様は、その過ちから訶梨帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時、訶梨帝母は、限りなく嘆き悲しみました。お釈迦様は、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。訶梨帝母は、はじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められています。(「Wik」参照)
| 名前 |
天児安神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0493-82-1059 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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街道脇の山腹に鎮座している。あまこやすと読んでいる。