古墳の上に佇む荘厳な大谷大雷神社。
大雷神社の特徴
大雷神社はゴルフ場に囲まれた山の上に位置しており、静寂な空間が魅力です。
荘厳な空気が感じられる大谷大雷神社は、いにしえの大古墳群の盟主の上に建っています。
由緒ある大雷命を祀る神社で、村内の鎮守として地元民に親しまれています。
ゴルフ場に囲まれた山野上にある、小さいながら荘厳な空気を感じるのは、社名のせいばかりでは無さそう。周囲には小さな古墳郡があり、三千塚の供養塔もある。
いにしえの大古墳群の盟主となる帆立貝式古墳の上に建つ神社です。周囲はゴルフ場になってしまいましたが、神社と古墳は昔の姿をとどめています。
| 名前 |
大雷神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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大谷大雷神社(おおやだいらいじんじゃ)御祭神 大雷命(又は若雷命)由緒大谷村 雷電社 雷電山と號せる山の上にあり 村内の鎮守なり 村持(「新編武蔵風土記稿」参照)「武蔵志」では大谷村の項で、当神社について「社地ハ巒山ノ内 高キ所ナリ 遠キ境ヨリ松樹繁リ 覆椀ノ如ニ見ユル 夏日雲ヲ催シ雷鳴スレトモ 雨少ク雹ヲ降ラス故ニ遠近ノ民大ニ怖ル 古今相同」と触れています。これは、簡潔ではありますが、当神社の景観をよく言い表した文章と言えます。文中に「覆椀ノ如」とあるのは、「帆立貝式」と呼ばれる一種の前方後円墳(前方部が後円部に比べて極端に小さい)の墳丘の形容を表現していて、当神社の社殿は、五世紀に築造されたと推定される、昭和三十一年(1956)に東松山市指定史跡となった雷電山古墳の墳丘上に築かれています。社殿の周囲からは、埴輪や土器などが数多く出土していて、その主なものは公民館に展示されていますので、容易に見ることができます。社伝によれば、創建は貞観元年(859)四月十二日で、「三代実録」貞観六年(864)七月の条に載る神階を授与された神々の中で、「武蔵国従五位下若雷神従五位上」と見えるのが当神社であるといわれています。この若雷神は「延喜式」神名帳の登載からは外れているため、その比定する社については諸説ありますが、当神社が鎮まる雷電山古墳やその付近一帯に散財する三千塚古墳の存在から、ここに埋葬された首長層とのかかわりの中で語られてきた伝えであろうと思われます。また、この地は山間の地であるため、古代から水利の便が非常に悪く、五穀の実りも悪かったのですが、大雷命を祀って以来五穀もよく実るようになり、盛夏干ばつの折には村民を挙げて降雨祈願を行ったとの伝承があり、江戸時代、豊作の年の祭礼には江戸から力士を招いて奉納相撲が盛大に行われていたといわれています。一方、「明細帳」由緒の項には、これとは違う古老の口碑が記されています。それによると、当神社の由緒は、「旧字雷光山消跡雷電坊之祖恵弁宝名僧ニシテ雷ノ神ヲ使フ事妙也 依リテ大治元年午(1126)六月廿日大雷命ヲ祀リ雷電大権現ト請シ日テリノ際雨ヲ降ラス事願成就速カニシテ云々」となっていて、この口碑に従えば、当神社の創建は鎌倉時代のこととなります。但し「風土記稿」を見ても、「雷光山」「雷電坊」「恵弁」などの名は見当たらず、当神社も「村持」となっているため、雷電坊が存在した事実は確認できていません。江戸時代、当神社は少なくとも二回再建されています。一度は寛政十年(1798)四月二十五日で、この時には近郷近在二十七か町村の人々によって再建が行われたと伝えられています。しかし、安政四年(1857)に近くに起こった山火事が元で炎上してしまい、それから五年の歳月をかけて再建されたのが現在の社殿です。この火災の時、神体として本殿に奉安されていた御幣は、自ら社外に飛び出し焼失の難を免れたため、当神社に対する村民の崇敬の念はますます深まったといわれています。この御幣は現在も本殿内に奉祀されています。(埼玉県神社庁発行「埼玉の神社」参照)東松山市指定史跡「大雷神社祭礼相撲場跡」旧大谷村の総鎮守大雷神社の社殿を中心に、辻(相撲場)が二ヶ所あり、一の辻・二の辻と呼ばれ、一の辻は大相撲に、二の辻は草相撲に使用されていました。辻には三百席ぐらいの桟敷席が、傾斜地を巧みに利用して造られていました。現在は二の辻だけが残っています。大雷神社の相撲は、江戸時代中頃から行われていたと伝えられています。相撲の興業には、領主だけでなく関東取締役の特別の許可が必要でした。相撲興業には、近在の人々が大勢集まり、「関東三大辻相撲」の一つといわれるほど賑いました。この日は祝酒とともに「ぼたもち」を相撲見物の人たちにふるまったことから「大谷のぼたもち相撲」とも呼ばれ、大変親しまれていましたが、明治二十年頃を最後にその姿を消しました。(「現地案内板」参照)雷電山には、農耕に関連していると思われる、山姫の伝説が民話として残っています。民話「山姫の伝説」雷電山の山姫様は一年に一度だけ秋晴れの日に舞を舞うと伝えられています。踊りを舞っている時には耳を澄ますと美しい音色が麓の人々にも聞こえてきました。そのうっとりとする調べは村の若い衆の心を動かし「さぞ美しい姫であろう、一目でいいから見てみたい。」と誰しも思いました。しかし、お姫様は気の毒にも足が一本しか無く二本の足を持っている人を見ると呪いを掛けると言われていました。それで山に登るときは一本足で歩いて登らなければならず、その上一年に二度実を付ける栗の木の実を十七個拾って神殿に御供えしなければなりませんでした。十七個と言う数は、お姫様の年齢ではないかと言われていました。ある時、お姫様を見たい一心で一人の勇気ある若者が、栗を十七個拾って雷電山に一本足で登って行きましたが、夜になっても帰って来ませんでした。翌日、村中の人達が総出で探したらその若者の家の棟にしがみついて眠っていて、若者の着物の裾には一本足の蝦蟇蛙が食いついていました。若者はそれから三日三晩眠り続け、目が覚めても何も喋らず、とうとうそのまま年老いてしまいました。一度だけお姫様の絵を描いたそうですが、足は一本でしかも蝦蟇蛙の足のようだったといわれています。(PDF「大谷伝説の里の歴史を訪ねて」参照)