三笠城からの絶景体験。
熊野城跡の特徴
熊野氏の居城で、尼子10旗の一角を担っています。
三笠城からの登城ができ、歴史を感じる山道が魅力です。
整備された本丸跡からは、遺構がしっかりと確認できます。
三笠城から歩いて登城。1時間ちょっと歩きました。須谷地区農村公園と須谷公民館の間の道を400メートルほど進むと右手に登城口があります。尼子十旗の一つになります。
以前は登山道も荒れ、本丸跡も視界が無い状態でしたが、整備をされて視界が開け遺構がよくわかるようになっています。360度のパノラマに癒されます。
| 名前 |
熊野城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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尼子10旗の一角の熊野氏の居城です。15世紀に熊野氏の当主熊野久忠によって、築城されました。永禄6年1563年9月に毛利軍の攻撃を受けましたが城兵の抵抗で防衛は熊野側が有利になり、熊野鉄砲揃の戦いと言われてる一連の戦いは尼子側の勝利で終わりました。なぜこの名前になったかに関しては、熊野城を攻める際毛利方は300丁の鉄砲を動員して、攻撃したとされます。この攻撃で熊野側は有力な将が討死しますが、守り抜きました、毛利氏の役職の中には〝鉄砲頭〟というものが文献から確認でき、鉄砲頭の武将も政治文書連署しています。しかしそこまで大きくもなく一部隊は100人、鉄砲頭は確認できるだけでも5人のため500人くらいだとされます。しかし毛利との戦には大体関わっていて、最前線を守る国衆の増援が多かったみたいです。他にも尼子側の城攻めで永禄6年の白鹿城攻めでは鉄砲が確認されていて、城攻め後の同年9月に吉川元春手負注文によると、死傷者52人中5人戦死、負傷者、刀傷1人、矢傷6人、礫傷5人、鉄砲傷33人という感じで、鉄砲の威力が物語っています。実のところ尼子側は鉄砲の話が多く残っていて、尼子軍は鉄砲が充実してたと自身は思います。毛利側も鉄砲は使ってたので白鹿城では鉄砲玉が発掘されていて、その中には中筒(火縄銃より少しデカい)の弾丸も出土してますが、※深町砦という毛利側の白鹿城攻めの拠点から出土したので毛利側と思われる。