歴史を守り続ける浜空神社。
浜空神社跡地の特徴
楢枯れの大木が伐採され、明るい雰囲気に生まれ変わりました。
富岡総合公園の近くに隠れた歴史スポットがあります。
横浜海軍航空隊の守護神社跡地で聞ける“知られざる歴史”に感動。
名門の横浜海軍航空隊の神社が小規模ながら再現され整備されています。
浜空神社とは、横浜海軍航空隊の守護神として建立された神社であり、この場所にありました。現在は雷神社(追浜駅付近)に奉遷されました。こちらに手を合わせて、その後雷神社へ参拝に参りました。碑文浜空神社の由来昭和十一年十月一日 飛行艇隊の主力として浜海軍航空隊が当地に開設されたその守護神として造営されたのがこの浜区神社である。昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生れ変ったのである。浜空会では特に願い出て戦者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇の戦没者職者約二千柱の神霊を合祀した。横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在理立てられた根岸湾に水上の飛行報発着場を専有していた隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行規字門航空隊としてその威容を誇ったものである。今なお隊門付近の桜並木と飛行艇大格納が当時を偲ぶ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる。時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した。十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した。引き続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行部隊が横浜空を母隊として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒攻撃輸送放出作戦等を展開ーハワイ印度アリーシャン豪州ソロモンにわたる広大な戦域を、駆け巡って朝戦闘した作戦上部隊名を八◯一空(横浜)八五一空(東池)八◯二空(十四空)九◯一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為記間航空隊に全飛行維隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである。中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて十七年八月宮崎司令以下三三八名が壮烈な王みを遂げたのである。富岡のこの地は、かくの知き誇りある海車飛行機部隊長祥の歴史をもっているのであるこの事実を永く後世に語り継がんが為こゝに記念神を建立する次第である昭和六十三年一月海軍飛行艇会 建之。
神社本体は追浜の雷神社に遷座している。そちらを訪れたことがあるが、移転元がここまで立派な境内だとは思わなかった。(社殿の規模は大差ないようだ)可能ならば両方を見たほうが良いだろう。
誰がお金を出しているのかは知らないが、定期的に整備されているので、ゴミもなく 綺麗。神社と言っても 社殿はなく、通路も短く、石碑があるだけ。昔の空軍の跡地だったということらしいが、詳細はよくわからない。ほとんどの人は注目していないだろうが、一番大きい石碑の裏手には三段ぐらいの小さな階段があり、なんとそこの通路のど真ん中に大木が生えている。生命力が感じられて好き。
ここ一年で、大木が楢枯れなどで伐採されたり、シュロが撤去されて明るく清潔な感じになったように思うよ。
富岡総合公園の入口から少し入った所だが、あまり人目につきにくい。なのでひっそりと静かにお詣りができる。浜空神社の跡地ではあるが、それでも戦地で尊い命を捧げた御霊の供養に相応しい場所ではある。
自分達の知らない歴史が身近にありました。
知られざる歴史。
この付近一帯を基地としていた「横浜海軍航空隊」の守護として勧請された神社のあった跡地。慰霊碑や記念碑は現在も建っている。 「浜空神社」自体は追浜の「雷神社」境内に移されている。 「浜空」は「横浜海軍航空隊」の略であろう。
| 名前 |
浜空神社跡地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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富岡総合公園の林の中に鎮魂の思いとともに神社跡をしっかり守っています。