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| 名前 |
剛海堂 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
|
剛海堂に祀られている、剛海上人はもともとは秋田の出身である。剛海上人の末裔にあたる今野家の伝承に依れば、上人は百姓の家に生まれたが、手に「ひようそ」ができて、畑仕事ができなくなって困っていた。そこで行者に相談したところ、僧侶になれとのお告げがあり、まずは秋田の太平山で修行し、のちひ出羽三山で修行したと言う。たしかに出羽三山の山伏は「海号」といって法名に海の字がついている。剛海上人は江戸末期の山伏としては高位である権大僧都の位につき、菊の紋のついた緋色の五條袈裟をつけていた。しかし、それではもったいないと、菊水に改めたたいう。史実かどうかは不明だが、秋田の殿様にうとまれたため秋田をでたという。最期は群馬の太田にあるイサスミ神社の堂守をしていた。太田市史によれば、生前は法力が強く、鑑定希望者の夫婦が朝に家を出るまえに「鑑定のお礼はこのくらいの金額にしよう」と話しあってから上人のところを訪れた。鑑定がおわって、そのお礼の代金を上人にうかがうと「朝にお前立ちが相談した、これこれの金額でよい」と答えたので、驚いたとある。上人は明治初年に土中入定したと言われている。地元の古老の話では、以前、現在のお堂から離れたところに入定塚があったらしいが、浜町の区画整理のときに、特に拝みもせず掘り返して移転させたら、町内の家々の家人が順番に一人ずつ亡くなり始めた。「次は俺の番だ!」と恐れをなして、引っ越す人もいたくらいだった。そこで、お堂をつくり上人のお像を祀り供養すると、それが止まったという。その後に、一願成就の霊験ありとしんじられている。10/22がご命日である。