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間々田宿問屋場跡間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から十一番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。天保十四年(一八四三)の記録によると当宿は石高九四四石家数一七五軒人口九四七人旅籠 五〇軒本陣一脇本陣 一と記されており、幕府の定めより、常備の人足二十五人、馬二十五疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。それらの人馬継立業務の一切を取扱うのが宿役人で、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などと呼ばれ、その詰所に当たる場所が問屋場です。ここ間々田宿の上中町の上原が、名主職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を勤めていました。間々田商工会小山歴史研究会。