長福寺へ続く、歴史深い参道。
三の宮神社の特徴
立派で良く手入れされた神社が魅力です。
枝垂桜の長福寺近くに位置しています。
鳥居が印象的で訪れたくなる場所です。
無人ですが立派で良く手入れされてました。
枝垂桜の長福寺から、西方道の駅方面国道293号線に向かう途中に、鳥居を見つけ立ち寄りました。階段を登ると、想像よりもはるかに大きな社殿です。祭神は、磐裂神,根裂神, 配神 経津主神,火産美神 ふつぬしのかみは古事記には出てこない、日本書紀にでてくる神様ですね。ほむすびのかみ(カグツチ)はイザナミの死の原因になった神で、妻の死に、怒ったイザナギに切られてしまい、その血から産まれたのが、イワサク、ネサクの神です。
長福寺に行く途中にあったので訪問しました。
| 名前 |
三の宮神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-tochigi/jsearch3tochigi.php?jinjya=75876 |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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三宮神社(さんのみやじんじゃ)主祭神 磐裂神 根裂神配祀神 経津主神 火産霊神合祀社 愛宕神社 厳島神社境内末社 八坂神社 菅原神社 豊受神社 豊年神社由緒第七十代後冷泉院の天喜五年(1057)下野国は宇都宮明神の初代座主宗円の時代でした。その頃、源義家が宇都宮明神を祀ったとの説があります。都賀町富張は、建久二年(1079)に下野守に任ぜられた「八幡太郎源義家」が、ここで敵を望見したことから「遠見張り」とよばれ、後に「富張」となったといわれています。また、「神楽岡」という名も戦勝祈願に神楽を舞わせたことに由来するという説があります。富張城は、いつの頃に出来たのか分かっていません。一説によれば、三宮神社が祀られた後に「城」あるいは「砦」が築かれたと考えられています。三宮縁起では、観応二年(1351)宇都宮九代公綱の代に、富張の豪族藤平紀伊守康隆(武藤康隆)は、足利尊氏と直義兄弟の争い「薩睡山の戦い」の時に、西方初代である西方遠江守景泰と共に、尊氏方に付き参陣しました。康隆は、上州において直義方との戦いで苦戦を強いられていましたが、その折、土地の三宮大明神に札を掛け神に誓って戦い、その後の戦いに勝利が多くなりました。康隆は、本国・富張に帰陣し、三宮大明神に幣を捧げました。その夜、夢に三宮大明神が顕れ、「神楽岡の楠の大木に神幣を建てなさい」とお告げがあったので、神楽岡の楠木の根元に祠を建て、神幣をうつし、三宮大明神を勧奉しました。三宮大明神とは、神道の唯一の三元である日・月・星を神として祀る霊験あらたかな神体の事です。その後は村の総鎮守となり、神楽岡・山崎の地に遷座しました。宝永五年(1708)正一位を授与されました。三宮神社の拝殿は、明和三年(1766)に建立されました。(石碑「三宮神社由来」参照)