歴史の息吹、杵淵館の土塁。
杵淵館跡の特徴
昭和前期までの城跡に残る貴重な遺構が魅力です。
平安時代末期に築城された歴史深い杵淵氏の居館です。
巨大な土塁と堀が見どころで、訪れる価値があります。
杵淵館跡形態:居館別名:杵渕館文化財指定:不明遺構:土塁,堀城主:杵淵氏(きねぶちし)歴史:築城年代は定かではないが平安時代末期に杵淵氏によって築かれたと云われる。杵淵氏は養和元年(1181年)横田河原合戦で富部(戸部)三郎家俊の旧臣杵淵小源太重光が主君の仇を報じのち、大刀を口に含んで馬上から飛び降り自害したと『源平盛衰記』にあり、戸部城主戸部家俊とは主従関係であった。説明:杵淵館は杵淵公民館の北西側一帯に築かれていた。現在は民家の敷地となっているが、北西隅の高土塁と堀跡が残されている。
2022/9/11巨大な土塁と堀がある。周囲は開発されているが、土塁の上に神社があったからここだけ遺ったのだろう。
| 名前 |
杵淵館跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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ここには昭和前期まで城跡らしい遺構が残っていたそうです。そこから考えると、鎌倉時代末から戦国時代にかけて、この辺りには城砦または城館があったものと見られます。したがって、この一帯の集落の道は直角に曲がる「鉤の手」になっています。敵の侵入を阻むための桝形が築かれていた名残りと見られます。川中島は戦国時代には広大な湿地帯でしたが、杵淵は浮島のような高台の洲だったのではないでしょうか。そして、武田家が築いた松城の海津城の千曲川とその湿原を挟んだ対岸に位置しています。武田あるいは上杉方のいずれの城砦であったにしろ、重要な拠点だったのでしょう。城跡の北東には、典厩寺があります。戦国時代に創建された、武田信玄の弟、信繁の菩提を弔う寺院だとか。そこには典厩寺の前身となった寺院があったのではないかと想像できます。理由は、杵淵城砦の鬼門に位置するからです。とはいえ、典厩寺創建の頃には、すかkり荒廃していたのでしょう。