喜多の墓で学ぶ文武両道。
片倉喜多の墓の特徴
喜多は伊達政宗公の乳母を務めた才女でありました。
片倉小十郎の異母姉である喜多の墓所がここにあります。
白石市章にも用いられた黒鐘の大馬験のデザイン者です。
こちらは仙台藩祖の伊達政宗公の乳母(教育係)を努め、かつ政宗公の右腕として活躍された初代片倉小十郎の異父姉にあたる方の墓所となります。現在でも信長の野望シリーズなど色々なゲームにも登場するほどの有名な女性です。お墓までは白石城跡から坂道を歩きました。山の中のお寺の裏の墓地の一角にあります。説明書きがなければどこなのかわからないほど質素な感じです。道中は石で舗装されていますが落ち葉も多く雨の日などで石が濡れていると、かなり滑りますので行かれる際は充分にご注意ください。晴れた日の明るい時間帯にお参りすることをお勧めします。
片倉小十郎景綱の姉(異母姉と言われている)で、梵天丸(伊達政宗の幼名)の乳母とされている女性で、梵天丸が生まれて喜んだ父親の伊達輝宗が自ら選んだ才女だと言われている。伊達政宗は、豊臣秀吉が天下人だった頃に京の聚楽第に屋敷を与えられたそうで、たまたま一揆の鎮圧を命じられて政宗が留守の時に秀吉が伊達政宗の内儀である愛姫(めごひめ)を呼び出したことがあったそうで、喜多は女中を愛姫の代わりに秀吉のもとに遣わしたそうだ。秀吉は女にだらしがないという噂があったらしい,。しかし、戻って来た政宗は、その話を聞いて怒った政宗は喜多を解任し在所に戻してしまったらしい。(一説には、政宗も女に厳しくて、一人として手放さないほどの嫉妬心があったらしい)。この人は、よほどの才女だったらしく、後年におこった伊達騒動を題材に描かれた歌舞伎の「仙台萩」の中で若様を守る役で描かれているそうです。そのためか、墓石は「子供を守る」ご利益があると信じられて削られているそうです。
仙台藩祖伊達政宗公の乳母として、白石城主片倉景綱(初代片倉小十郎)の母代わりとして二人を育て、白石市章にも用いられる黒鐘の大馬験をデザインし、太閤豊臣秀吉より少納言喜多と称された才女。白石市も宮城県も、もっと歴史的再評価をなすべきです。HKドラマ『独眼竜政宗』で竹下景子が喜多役として出演し話題となり、もともと砂岩(推測)でできている墓石を削り土産とする人が数多くいたため、今では小さな石となっていますが、晩年に草堂を結んだここを訪れると、今もお喜多さんが迎えて下さることを感じます。是非とも訪れてほしいです。
片倉小十郎景綱の異父姉、喜多の墓です。ここから真田幸村の墓まで、歩ける道が繋がっています。
著名人ではないので。
名前 |
片倉喜多の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
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喜多は戦国時代から江戸時代を生きた文武両道に秀でた烈女で有り才女で父は、伊達家重臣の猛将鬼庭良直(喜多のいた頃は二千石拝領、後に子の代では一万三千石拝領し、氏も茂庭と改名)正室直子との間の一人娘だ、やがて側室に嫡男が生まれ直子は協議の上、喜多を残し別れを選ぶが喜多は鬼庭家を捨て、淋しかろうと母に同行した。やがて神官の片倉家ㇸ母は再嫁して異父弟の片倉小十郎(景綱)を生む、喜多は姉となり母亡き後は母代わり。やがて才女の誉高い喜多へ伊達家嫡男政宗の乳母役❨喜多は独身なので養育係)となり側近と成った弟小十郎(一万三千石拝領、後に一万七千石拝領)と共に政宗に仕えた、政宗正妻の愛姫が上京し聚楽第住まい(人質)時は喜多は側に仕え、秀吉との謁見時には才女ぶりを見込まれ少納言と呼ばれる様に成った。喜多の蟄居場所は墓手前右手の“瀧の観音堂”裏に喜多庵を構へ、暮らし没した。喜多考案の旗印が現在、白石市の市章だそうです。今の墓は参拝者が喜多にあやかりたく削り採る人々多数で今は二代目の墓らしいが独眼竜政宗の放送も終わり忘れ去られた感の城趾、今は静寂の中の苔生した墓だった。*直ぐ近くに真田幸村の墓もあり、一国一城の例外を許された伊達家。陪臣での城持ち片倉家代々の墓も、ほんの少し離れた場所に一文字に並んでいます。