高岡古城公園内の由緒ある神社。
越中総鎮守一宮 射水神社の特徴
射水神社は高岡古城公園内にあり、風情ある参拝地です。
決して混雑しない場所で、静かな雰囲気の中で心を休められます。
瓊瓊杵尊を御祭神とし、格式高い神社として歴史があります。
高岡駅から歩いて高岡城跡に行き、城見学の後になりましたが参拝させてもらいました。越中国一之宮とのことで、かなり人が来られていました。私も参拝させてもらって願い事をお願いして、御朱印を直接書いて頂きました。やはり気持ち良いものですね。
高岡古城公園内にある神社になります。現在(2024年9月)あちこち工事していましたが社務所は通常通り開いていて御朱印もいただけました。
屋根の瓦に願い事を書いてきました。50年は屋根にはっついてくれてることがすごいし、うれしい。幸せでいれますように。
令和5年8月23日、一宮巡拝で参拝いたしました。朝9時からが御祈願やお祓いの受付ですが、御朱印は9時前でも授かることができました。ちなみに、御朱印は持参した御朱印帳に直接いただけました。高岡城址に隣接しているため、ナビの案内はそれなりに的確でした。ただ、最も近い駐車場に行くのに、鳥居の脇を抜けて行くことになり、このルートで良いのか少し悩みました。(車が通った跡があったので間違いないのでしょうが…)手水舎に水みくじ用の桶が、良い感じの雰囲気を醸し出してました。
「射水神社」は「高岡古城公園」内にある神社で、「手水舎」にお花が浮かべてあったり、境内の真ん中で紅梅が綺麗に咲く素敵な神社でした。越中国の総鎮守なのだそうです。ご神紋が「御鏡に稲穂」で、ご祭神は豊穣・みちひらきの神様だということでした。
2022.10.11 奉拝越中國の一宮の1つになります。(富山県内に一宮は4つ、島根県の次に多いっすよね。)ここも8年前に今日と同じく高岡大仏を見た後に参拝しました。その時は徒歩でしたが、今日は車。高岡古城公園の中まで車で入る事ができて、参道をすっ飛ばしてあっという間に境内そばの駐車場に到着してしまいました。外拝殿では巫女さんが七五三の対応をしていて、微笑ましかったので、遠目から写真をパチリ。参拝を済ませ、社務所で御朱印をお願いしようと、全国一宮御朱印帳と氣多大社で買い求めた御朱印帳の2つを差し出すと、一宮御朱印帳には、射水神社は印じゃなく、書きます。だから同じものではなくなりますが…と説明を受け、そのままお願いしました。どちらも手書きで素敵でしたよ。
富山県高岡市の高岡古城公園内にある神社です。登記上の宗教法人名称は越中総鎮守射水神社と。式内社、越中国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社で神紋は稲穂です。11月中旬にお参りしました。高瀬神社をお参りした後、レンタカーで移動。高瀬神社から約25分。七五三で参拝客はかなり多かったです。駐車場もいっぱいです。この射水神社に入る入口が少し分かりにくかったのと、出口が一方通行になっていて県外からの人は少し駐車場に入るのを戸惑うのでは?と思います。紅葉🍁の景色も見れてよかったとは思っております。
2022/5/15に参拝。高山古城公園の中にあるので、公園全体が境内のように感じます。紅葉がいたるところで目につきました。5月なので青紅葉でしたが、秋は綺麗だろうなと思いました。無料駐車場が境内にあります。公園にも無料駐車場がありますが、神社までは結構歩きます。神社だけに用があるなら、境内の駐車場が便利です。
レンタカー1日借りて富山西側の一宮神社を三社巡りました。物凄く広い公園の中にある一宮神社でした。駐車場を間違えると往復30分くらい歩くことになるのでお気をつけください。狭い道でわかりにくいですが、大手口という入口から入ると射水神社の駐車場までダイレクトに入れます。時間制限あるので困っていたらわざわざ引き返して地図のある場所まで案内してくれた健康的なおじさま、ありがとうございましたm(_ _)mお陰様で心配してくださったように正面までぐるっと一回りせずに参拝することが出来ました。土地勘のないところで優しくされると情けが身に沁みます…
名前 |
越中総鎮守一宮 射水神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0766-22-3104 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.2 |
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射水神社は富山県高岡市の高岡城本丸跡にある神社である。現在の正式名称は「越中総鎮守射水神社」という。元々は、高岡市の二上山山麓にあり、六国史で神階を何度も賜っている「二上神」を祭る神社であった。延長5年(927年)に成立した延喜式神名帳にも記載されていることから、1000年以上の歴史をもっている。「射水神社誌」(1924年)によれば、明治8年(1875年)に二上山麓から高岡城本丸跡に遷座したが、遷座するにあたり、祭神を二上神から瓊瓊杵尊に変更し、受け継がれてきた特殊神事も止め、引き継がれてきた神器古器物古記録を悉く放棄したそうだ。「高岡市史」によれば、明治5年(1872年)に権宮司へ就任した関守ーが、社殿改築を理由に高岡城本丸跡への遷座の官許を得たそうだ。1000年以上鎮座している産土神を移すと突然知らされた二上村民は大反対したが、関守ーが官の許可を得ていたのでどうしようもなかったようだ。関家は二上山に30代奉仕してきた由緒ある家柄である。大正13年(1924年)当神社宮司を勤めた高野義太郎は、著書「射水神社志」(1924年)で、この関守一の専制的ともいえる決断の背景として、数百年に渡る別当寺の専横があるとしている。別当寺というのは神仏習合の時代、寺と神社を同一視し、神社内に建てられた寺であるが、なぜか別当寺の方が権力が強く、神社の宮司は別当寺の僧の下に置かれたという。江戸時代、射水神社が「二上山大権現」と称していたのも、別当寺の権力が強かったためであろう。関家の口碑にはこうある。「社領なども養老寺領として神主に関係せしめず、大祭に際してはその前日に関家に簡単な祭典をなさしめ、当日も社僧にて大般若経転読祈祷という始末。神社であるか寺院であるかの区別さえ立たぬほどで、二上権現は養老寺の境内神社の如き有様になってしまった」射水神社の別当寺は養老寺だったが、江戸時代の風評はあまり良くなかったようだ。というのも、慶長15年(1610年)、養老寺は、加賀藩主・前田利長により越中4郡から初穂米の徴収を許可されたが、その徴収は苛烈だったようで、大凶作の時には、わざわざ金沢藩が取立て止めを出したというので、取立て止めが出なければ、変わらず徴収していたということであろう。関守ーが遷座を強行したのは、この数百年にわたる養老寺社僧の専横を増んだからだと高野義太郎は語っている。明治元年(1868年)の神仏分離令により社僧が神社へ関与することは禁じられたため、宮司が社僧の容喙を受けることはなくなったが、養老寺の社僧が還俗して二上姓を名乗って射水神社の神主の列に加わったのが我慢ならなかったのだろう。恐らく、永年養老寺を崇めて射水神社の存在を忘れた氏子たちにも我慢がならなかったのかもしれない。射水神社遷座を前に、関は高岡市長と射水神社権宮司を兼務し、宮司には金沢藩家老・青山直次を擁立。さらに次の宮司も金沢藩家老・加藤里路を擁立し、代々世襲してきた宮司の地位を有力者に譲って地盤固めを完璧にして官許を得るに至ったと「射水神社誌」は語っている。遷座にあたっては、関守ーは地元に何の相談も通達もしておらず、官の許可を得て反対できなくなってから通達している。さぞや溜飲を下げたことだろう。妄想すれば、関守ーは社僧の専横を憎んだというよりも、平安時代から寺院の影響が強かった射水神社の歴史と狭隘な社領、養老寺に帰依していた氏子など、射水神社を取り巻く全てを嫌悪していたのではないか。遷座してからは祭神を変え、古来からの神事も放棄し、伝来の神器古器物古縁起も廃棄してしまっているのは、新天地に移って昔の由緒も歴史も全て切り捨て、新しい別の神社として再興したかったように見える。だが、不思議なことに、変更した祭神の瓊瓊杵尊は、関が憎んだという別当寺・養老寺の古縁起「ニ守山由来記」に書かれている往古に射水神社に祀られていたとされていた神であるが、全く根拠のない妄説である。また、今の社名にある「鎮守社」というのは寺院のための神社(神社のための寺が別寺というものの逆)を示している。何かチグハグな結果になったように思える。