夏目次郎の碑、忠義の証!
夏目次郎左衛門吉信旌忠碑の特徴
夏目次郎左衛門吉信の忠義を称える碑である。
三方ヶ原の戦いで家康を救った故事が伝わる石碑。
浜松に位置し、歴史的価値の高い場所に建立されている。
地図と実際の碑のある場所が違うような気がします。国道257号沿い、遠鉄バス下り「さいが崖」バス停目の前です。
夏目次郎左衛門吉信の碑三方ヶ原の戦いの際、主君徳川家康の身代わりとなって討死にしたとされる夏目吉信の忠節を讃える碑です夏目次郎左衛門吉信旌忠碑題字は 公爵徳川家達(とくがわいえさと)御三卿の田安徳川家第7代当主、徳川慶喜謹慎後の1868年(慶応4年)に徳川宗家第16代当主、のちに第4代~第8代までの貴族院議長。
三方ヶ原の戦いに於ける夏目広次(吉信)氏の誠忠を彰旌して、昭和11年(1936年)に建立された石碑です。正面の題字は徳川宗家第16代徳川家達公爵の揮毫です。背面にも少々長文ですが碑文が刻まれています。明治37年(1904年)に建立された奥山半僧坊大権現里程石(五里)が隣接しています。永禄6年(1563年)の三河一向一揆の際には、広次氏は一向宗側に付き、野場城(六栗城説有り)に拠り、深溝松平伊忠氏と戦った事が『深溝世紀』に記されています。その後伊忠氏に捕らえられましたが、乙部八兵衛氏からの助命嘆願が聞き入れられ処刑は赦免され、伊忠氏付きとされました。その2年後には伊忠氏の推挙で家康公に再仕帰参が許され、三河・遠江両国の郡代に任ぜられています。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、浜松城留守居を任ぜられていた広次氏は櫓から徳川勢敗色濃厚を見て取り、25騎(20騎説有り)の与力を率いて家康公の許に馳せ参ずると、僅かな旗本衆・近習衆が家康公を護衛しているのみ。多くの将士を失い乱心する家康公が武田勢に突撃して果てようとする所を、「端武者の如き働きをなさり何の益がござろう」と諫め、家康公の馬の轡を取り浜松城に向け、その尻を叩いて馬を走らせ強引に帰城させました。ようやく家康公が逃げた後、家康公から奪い取っていた兜を被り、「我こそは三河守なるぞ」と武田勢に斬り掛かり、当旌忠碑から遠からぬ場所で与力たちと共に討ち死にしたそうです。大河ドラマ『どうする家康』でも描かれたこの身代わりの場面は印象的でした。この出来事も当旌忠碑も、浜松市民にはかなり有名なのですが、ドラマをきっかけに当地を訪問なさる人が増えれば良いな、と思います。同じく三方ヶ原の戦いで殿を務め討ち死にした本多肥後守忠真氏の屋敷推定地に建てられている犀ヶ崖資料館も至近ですので、戦国時代好きならばそちらもお勧めです。入館無料。尚、広次氏の墓所は、故郷である六栗城に程近い夏目家三代の菩提寺、愛知県額田郡幸田町六栗本郷の明善寺と、家康公幼少時の手習いの寺としても有名な松平家の菩提寺、愛知県岡崎市本宿町寺山の二村山宝蔵寺の2箇所です。
三方ケ原の戦いで、徳川家康を逃がすために亡くなった夏目吉信の慰霊碑です。ここで亡くなったわけではないと思います。確かこれは徳川家16代当主、徳川家達さんによって整備されたのものだったと思います。家達さんは、この辺の慰霊碑の多くを建てられたと思います。
夏目治郎左衛門吉信旌忠碑所在地 浜松市中区13訪問日 2023/9/13夏目吉信は、1563年(永禄6年)の三河一向一揆の時に捕らえられ処刑されるところを、徳川家康公の寛大な処置により助けられました。以来この恩義を忘れることが無かった吉信は、三方ヶ原の戦いの際、主君家康公の身代わりとなって敵陣の前に立ちはだかり、討死したといわれます。
「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑(せいちゅうひ)」は、主君徳川家康に対する夏目吉信の忠義と勇気を顕彰するため、小・中・青年学校39校生徒の寄付により1936年に建立されました。三方ヶ原の合戦に敗北した徳川軍からは、夏目吉信をはじめ、本多忠真、成瀬正義、平手汎秀など多くの将兵が犠牲となりました。2023年5月14日の「どうする家康」にも描かれていましたが、合戦時に浜松城で留守役を務めていた吉信は、敗走する家康を犀ヶ崖(さいががけ)に迎えると、家康の甲冑を身に着けて身代わりとなり、「我こそは徳川家康なるぞ」と追走する武田軍の前に立ち塞がり、55歳の命を散らしたのです。三河一向一揆では一揆側に加担し、その後に捕えられた吉信は家康から処刑を許されました。吉信は家康の身代わりとなって討ち死にすることにより、命を救ってくれた家康の大恩に報いたのです。生命の危機を何度も経験している家康ですが、犀ヶ崖における吉信の犠牲がなかったとしたら、武田軍に討ち取られて徳川幕府による江戸時代が実現することもなく、今日に至る450年間の日本の歴史は全く異なっていたはずです。ちなみに吉信は文豪夏目漱石の祖先に当たるということです。
今日から口コミが増えることを願います。
碑の高さに後世のご子孫の感謝の深さが感じられました。広次ではなく吉信と記されている点にも感じ入るものがありました。
☆家康が『信誉徹忠』の号を与えし夏目次郎左衛門、岡崎の「法蔵寺」墓所は家康が建立🤔1563年(永禄6年)『三河一向一揆』に加担し家康に敵対、一揆収束後、松平伊忠(深溝松平家/松平家忠の父、長篠の戦いで討死)などの嘆願あり、家康に帰参を許され復帰😓1573年(元亀3年)『三方ヶ原の戦い』、浜松城留守居、徳川勢敗色濃厚を察し、浜松城を出撃し徳川家康救援に、三河一向一揆帰参の恩義ある家康を浜松城へ逃がし、追手の武田騎馬隊に25騎で突入し奮戦、身代わりになり戦死、享年55😢☆犀ヶ崖古戦場の姫街道の直ぐ北側に石碑、姫街道の北に三方ヶ原・南に浜松城あり🐎
名前 |
夏目次郎左衛門吉信旌忠碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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夏目次郎の碑。詳細は他の投稿見ていただければ、犀ヵ崖古戦場の後に因んで本多忠真と併せて祀られているのですね。この辺りは浜松時代の家康巡礼が出来るコースの ひとつみたいです、