大友宗麟像で記念撮影!
大友宗麟像の特徴
大分駅北口にある大友宗麟の立派な銅像で目立つ場所に鎮座しています。
大友宗麟は、1530年に豊後府内で生まれました。幼名は塩法丸と名のつてましたが、10歳の歳元服し、当時12代将軍足利義晴の義をもらい義鎮と名乗ります。宗麟20歳の時、「大友二階崩れの変」と呼ばれる家督相続の内紛を静め大友家21代当主となります。1551年山口にいたフランシスコ・ザビエルを府内に招き会見をします。これを機会にポルトガル王に親書を送り、キリスト教の布教と、南蛮貿易をひろげます。こうした貿易で蓄積した財をもとに九州6カ国の守護職を任じられ、大友氏400年の歴史のなかで最盛期をむかえます。宗麟はキリスト教の布教を保護しながらも、自らは禅宗に帰依しながら、剃髪して「宗麟」となのります。48歳の時には、キリスト教の洗礼を受け、洗礼名フランシスコを名乗ります、1586年に「日向耳川の合戦」で薩摩の島津軍に敗れ、この後大友氏の権勢に陰りがみえはじめます。1587年には秀吉の九州平定があり、宗麟は57歳の生涯をおえます。
豊後のキリシタン大名、大友宗麟の像。古くから大分駅前のシンボルとして市民や観光客に親しまれている。大分の歴史を象徴する人物。
大分駅北口にある大友宗麟像。名前を知ってはいるけど、どんな人物なのかな知らないので軽く調べる。20歳で家督を継ぎ、豊後(大分)を中心に北部九州6国(豊後、肥後、肥前、豊前、筑前、筑後の6国。現在の大分、熊本、福岡、佐賀のようです)を支配した戦国時代の大名。フランシスコ・ザビエルを大分に呼び寄せた人。自身もキリスト教に入信したキリシタン大名。信仰があつく1587年に神に祈りを捧げ続け息を引き取ったとも言われている。享年57歳日本に初めて大砲を輸入した。大砲は島津氏との丹生島城、臼杵城の戦いで使用された。1557年に日本初の西洋式病院をルイスアルメイダが建築するにあたっての土地をアルメイダに提供。茶の湯をたしなんでおり、島津氏が豊後に迫りつつあった時、宗麟が大坂城に豊臣秀吉を支援を求めた際。茶の湯の第一人者であった千利休に「宗麟は茶が好きか」と尋ねたところ「なかなかの数寄者です」と答えている。蹴鞠の名手で宗麟は蹴鞠の名手を指す「上足」とも呼ばれた。銅像は天正遣欧少年使節400周年を記念して昭和57年(1982年)11月に設置。平成25年(2013年)7月に大分駅前広場整備に伴い一時撤去されたが平成27年(2015年)2月に再設置。そういえば、大分駅が新しくなる前の時は、すごく高い土台に載せられてた記憶があります。
9月23日は地方局の記念イベントが広場で開催中。像の周りは人だかり。10時30分時点でアミュプラザのP1駐車場は7Fまで満車。明日は有名芸能人も来るらしく人出はもっと多くなりそう。
駅前も昔と比べずいぶん変わっています。
戦国時代に九州九ヶ国のうち六ヶ国の太守として勢力を誇った大友宗麟の銅像。近くのザビエル像と合わせて歴史好きなら一度は拝見したい。付近の床のタイルに当時の世界地図が再現さており日本・豊後(大分)なども確認できる。こちらも是非チェックしたいポイント。
大分駅前に立派な大友宗麟像がありますが私以外誰も観ていないです。ここに来たなら東口にあるフランシスコ・ザビエル像も観た方が良いです。
大分駅での待ち合わせに使えると思います。隣のフランシスコ・ザビエル像の方が使いやすいかも。
府内(大分)の名をヨーロッパにまで広め、九州の2/3を支配したキリシタン大名・大友宗麟の銅像です。威風堂々とした姿が印象的です。近くにザビエルの銅像もあります。
名前 |
大友宗麟像 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.city.oita.oita.jp/o157/bunkasports/citypromotion/1369366853267.html |
評価 |
3.9 |
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旧大分駅時代から駅前北口に鎮座していた代表的な像。駅ビルが立て替えられ、駅前広場の区画整理されたのに移設してしっかり残った。