歴史を感じる長安寺跡。
朝闇神社の特徴
奈良時代の遺物が発掘され、歴史を強く感じさせる神社です。
鳥居は非常に小さく、屈まなければくぐれない独特のデザインです。
古社の趣が漂う、長安寺跡近くに位置する神社です。
鳥居が凄く小さくて屈まないと、くぐれない。朝倉の名の由来になるほど古い神社だけあって、不思議な雰囲気がありました。
案内板に書かれていることが ??となる謎の神社です。
古社の趣がある神社。この一帯は白村江の戦いの時の斉明天皇の宮殿の伝承地のひとつ。奈良時代には大きなす寺院があった。斉明天皇は、この朝倉橘広庭宮で崩御している。
「ちょうあんじんじゃ」と読むそうです。通りかかった地元の古老から話しかけられてお話をお聞きすると、「ちょうあん」から「あさやみ」、そして「あさくら」になり朝倉の漢字があてられたというお話でした。朝倉の始まった場所だそうです。東に山があり朝が暗いことからきたとのことですが、山の配置などが太宰府と似ているのかなと思いました。風水の影響でしょうか?なんとも言えない気を感じました。最後に、近くの柿農家さんをご紹介いただき、柿を買って帰りました。歴史を感じることができた有意義な時間となりました。
歴史を感じる古い神社。朝倉市を襲った水害のせいもあるのでしょう、少し散らかっていましたがソレも含めていい感じ。お盆休みを利用して訪れましたが、すでにツクツクボウシの鳴き声が降り注いでいました。
「あさくらのかみのやしろ」と思ったら、「ちょうあんじんじゃ」としており。長安寺に附属したには違いないが、大行事社とも称した。それなら英彦山登山口を取り巻くように立つ高樹神社に同じ。それで大行事権現とは何者かというと、猿田彦大神に化身した高木神(高皇産靈命)なのである。續群書類従に曰く大行事権現は。猿田彦神にて御す也。又は衢灵神とも號す。此の猿田彦と申すは。十禅師権現母方の祖父御前。高皇産靈命、皇孫降臨の時。三百六十種の御寳物を譲り玉ひけるも。此の國には地祇部類邪悪の神達多く御す故に。路次の間何にも心苦く思し召し。鬼王の如くなる威徳無双の神躰に化し。面を赤く鼻長く。左右の目は日月の如く耀。おそろしげなる形にて。鉾つきて。十禅師権現の天降り玉ふ路次に先立ちて。異相斯くの如き人と御す由告げ来たれば。怖れ畏み有る処に。天鈿女命を出だし。我行きて其の子細を尋ねんとて。彼の在所に至りて。元は何なる人と問ひ玉ふに。答て云ふ。我をば猿田彦と號す。實には高皇産靈命也。皇孫降臨路次を守護の為。此の鉾を以て邪鬼の者を拂ひ退け。諸道の印を結びて道路を鎭する故に。我が跡に付て神幸有らば。もろもろの怖れ有るべからずと畏み示し玉ふ。鈿女命此の事を奏し玉ふに。諸神大きに悦びて。成無異無事降臨玉ふ。大行事権現は。猿田彦の神にて御す故に。此の鎭道の神の御形状傳か。今の王舞有之。此の王の舞と師子との不通を神幸無事也。大行事は十禅師を擁護す。今の社稷も十禅師に向かひ玉ふ。凡そ山王の惣後見は。一切の行事をば。此の大行事権現の成し玉ふ事也。山王勧請の所には。何くにも又此の神を奉斎すへき事也。されば鹽下の惣社にも。惠心先德自ら、猿の行事の神躰を奉造り崇め制玉へり、是を彌行事と號く。「十禅師権現」とは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を指す。なぜ斉明天皇が朝倉に行宮を設けたかの謎、その理由の一つは天下りの場となった英彦山の協力を得ることにあったのかもしれない。
名前 |
朝闇神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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朝倉の長安寺跡からは奈良時代の遺物が発掘されていることから、興福寺(奈良県)と同時代に栄えていたのでは?云われています。また、隣接している朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)跡は、飛鳥時代の天皇である斉明天皇が営んだ宮殿跡です。『日本書紀』によれば、斉明天皇6年(660年)7月に百済が唐と新羅によって滅ぼされると、斉明天皇は難波などを経て斉明天皇7年(661年)3月25日に娜大津(現在の福岡市博多区)の磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入り、5月9日に朝倉橘広庭宮に遷して、百済復興の戦に備えました。しかし、斉明天皇は7月24日に朝倉橘広庭宮で崩御。わずか2か月余りではありますが、ここ朝倉の地に都が置かれていたことになります。