梅と歴史、浮島の神社参道。
小松天満宮の特徴
梯川の中に浮かぶ珍しい天満宮で、見応えがあります。
加賀前田家に縁がある由緒正しい神社で文化財に指定されています。
梅の花が美しい時期に訪れると、特に魅力的な訪問先です。
浮き島の神社。橋を渡ってぐるりと迂回したら駐車場(線無し)。梅の見物にも。特に土日は対向車注意。地震の影響で灯籠が壊れたり不安定なモノも。通行時は近付かない様、ご注意。お守りは窓口タイプ。見るだけで買わなかったら申し訳ないので呼び鈴鳴らしませんでした。2024/03梅の花がちらほらと開花。地元の高校合格祈願が沢山。おみくじ100円でしたもう少しで春ですね。
2024年3月10日に、5年ぶりにやって来ました。1月1日の能登半島地震の影響で、たくさんの石塔が倒れていました。梅の花は咲き始めで、これからさらに見頃になると思います。なで牛をなでに、またやって来よっと!
3.9.2024 梅を見に来ました。鳥居からの参道脇に大小色々な梅がありました。そんなに広くない庭ですが、個人的には結構好きですね。お出迎え?の花手水ならぬアヒル?ヒヨコ?にほっこり。駐車場(無料)は15台ほど。
御祭神は菅原道真、前田利常、白太夫神、応神天皇。白太夫神は菅原道真が太宰府へ左遷された際にお供した渡会春彦と言われている。加賀藩主•前田利常公が小松城に隠居された時、前田家の氏神である北野天満宮から勧請し城北にあたるこの地に社殿を造営。北野天満宮の僧•能順を呼んで別当として松雲庵とした。現在は梅林院と号する。逆さ北斗型参道(北斗七星)となっていたり七夕と冬至の日の出の光が交わる所に本殿があったり天文学的な事が多い。これは天文学に通じていた菅原道真にまつわる。小松城の鬼門•北の入り口になっていて川に囲まれた浮島に鎮座している。
梅雨時期の貴重な晴れ間にと、参拝してきました。手水舎にはアヒルさんが並んで出迎えてくれました。他の県の天満宮へも参拝しているのですが、こちらはお庭がとてもご立派で、真夏日でしたが何か涼しくもかんじました。社務所にて御朱印を頂いてきました。書き置きです。わずかですが駐車場スペースありました。大学生の息子と行くべきだったと後悔してます。
梯川(かけはしがわ)の中ほど【島】にある、珍しい天満宮。3年前、国土交通省が河川工事をし今は、朱塗りの天満橋があり入口まで車で行ける。駐車場もありお参りや見学が極めてしやすい。トイレも勿論あります!本年8月に3週間の長雨が有り、約1300棟に浸水被害があったそうである。3年前の工事の完了がなければ、交通省情報によると、9000棟の被害があったとのデーターもあるそうだ。この天満宮は、約76年前、朝起き会の発祥の地でもある。今の一般社団法人 実践倫理宏正会(本部、東京千代田区九段坂) 現在約、全国に900ほどの会場がある。この天満宮には、約5メートル位の朝起会発祥の地の石碑が有ります。ある意味、パワースポットであります。1000年に1回の可能性で降る雨が本年7∼8月に相当な雨が降ったのにも関わらず、天満宮は一切被害なく、周辺の災害も約8割減に済んだ事実が語っているように思われる!機会を作ってお詣りに行かれては、如何なものでしょうか!?
分水路があるため浮島形式の神社、神社の中にも周りにも、色々な説明書あるので割と見応えあります。何気なく見える景色の中身が分かるのは、楽しい事ですよね。駐車場、トイレ有り。
ウォーキング途中に寄りました。よく手入れされてます。梅の時期にまた伺います😊 それにしても小松は何処へ行ってもきれいに清掃してありますね 感心しますΣ( ̄□ ̄)!
小松城の鬼門として加賀藩三代前田利常が創建。金沢城で生まれ、高岡の守山城で育ったことから三城は一直線上に配置されているとのこと。また本殿は冬至の日の出の時刻に白山の方角からの朝日が差し込むように建てられているという。カラスよけの手水舎のアヒルはご愛嬌😆
| 名前 |
小松天満宮 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0761-22-2539 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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㊗️2024.11.04人伝に聞いて訪問しました。本体から切り離された浮き島の上に建立する神社。不思議な神の社です。帰りは小松空港からジェット機や飛行機✈️が頭上を通過して行きました。ココからの眺めは圧巻です😆❣️◆十五重の石塔 秘話前田和幸公はち宮を創定された翌年、万倍元年十月小松城で遊去されましたその折五人の追膜奈の一人品り左門とこの石塔にまつわる基活が伝えられています。利常公の遺命によって花極の供本を命ぜられた品川左門は小松から金沢へ向う途すじ様川を渡りながら天神の森を望み見た時、「尊霊術末期の時我を包されけれども存命の神彩を拝し本らず定めし 待ちなさるらんと、心の中に懸橋を心静かに打渡り懸橋の浜通りに奥をやる。日頃見馴れし天神の石の塔を見げつ~重ねあげにし塔なれど限りありてぞ見果てぬる」と心中を語りかけたと三壺記に記されています。そうして大使を果たした左門は自ら死の儀式を行い割腹して公のあとを送ったのです。