加賀一向一揆の足跡をたどる。
大聖寺城跡の特徴
本丸まで残る遺構は、実戦的な土の城の証です。
加賀一向一揆の拠点として知られる、歴史的な山城です。
風情ある整備された登り口から、ゆっくりと散策が楽しめます。
本丸までは登りやすくしてますが途中から草の量が多くなってきました当時の経路を整備してもう少しわかりやすく順路等案内板でも立ててあったら良かったかなと思いました。
遺構はそこまで多くはないですが、所々に残っていてます。駐車場には桜が咲いていました。あとヤマカガシのような体の横に赤い模様の入ったヘビを見ました。
公園のように整備された登り口のわりには、本丸までしっかりと遺構が残っていた。少し暗い雰囲気がするばしょだが、価値はあると思う。
何度も合戦があり都度改築された土の城ですから実戦的な構造になっています。見所満載です。土の平山城では一番好きなのは滝山城、二番が大聖寺城になりました!
貸し切り状態でゆっくりまわれた。帰り保存会のおじさんが、珍しい花が咲いていると案内してくれ、城郭以外にも楽しみ方がある事を知った。
加賀市指定史跡大聖寺城跡標高76mの錦城山に所在する平山城で「太平記」以降南北朝時代の文献に度々登場します。現在跡地は錦城山公園となっており、いくつもの曲輪や土塁、空堀などの遺構があり中世山城の雰囲気が残っています。【歴史】戦国時代は加賀国の主要な城として戦乱の場となり関ヶ原の戦い時には落城しています。江戸時代に入り元和元年(1615年)一国一城令のため廃城となり、寛永16年(1639年)には前田利治が7万石を分けられて大聖寺藩を立て、跡地に藩庁として大聖寺陣屋を設けました。【アクセス】公園の駐車場があります。散策は30分くらいあれば周遊ができます。#お城 #城 #城跡 #石川県 #加賀市#大聖寺城 #錦城山公園。
広範囲に遺構が残っています。
鎌倉期に狩野氏が築いたという城で、戦国期には加賀一個一揆と愛知山朝倉氏が奪い合い、織田信長が越前の朝倉義景を亡ぼした後は、織田や豊臣の大名が入り、改修して城の体裁を整えています。関ヶ原の戦いの際は、豊臣家臣であった山口宗永が西軍に味方し、東軍の前渡と品が率いる二万の軍勢に攻められ、五百の兵で果敢に抵抗するも敗れ、宗永と嫡子の修弘と共に自刃したと伝わっています。現在では錦城山公園として整備され、馬出し曲輪から本丸に登って、山口宗永の碑に豊臣家に殉じた宗永や修弘を悼み、各曲輪の散策を楽しみました。城の南に無料駐車場もあり、もちろん入場も無料で、比高65メートルと手頃な運動となります。
某PCゲームデフォ城を巡る旅越中から越前ヘ向かう途中の要衝小高い山ながら、しっかりした遺構が残っています。時間的に全て回りきれませんでしたが、内側を1週。雨上がりだと泥濘んだ場所が多いので(特に本丸跡と二の丸跡からの下り道)、靴には注意を!案内板が多く、整備はしっかりしてましたが、本丸跡ヘ登る階段に倒木が有りました。
| 名前 |
大聖寺城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
令和7年4月13日の大聖寺桜まつりの日に伺いましたが、途中から激しい雨が降り出し大変でした。ただ、ポツポツと雨音だけがするヒトケのない静かな山中の雰囲気が、まるで400年前の戦国時代にタイムトリップしたかのようでした。入口の駐車場にある立て看板の説明を転載します。■大聖寺城址錦城山の由来■標高約六七メートルの錦城山には、南北朝以後 大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。現在の配置は豊臣秀吉家臣の溝口秀勝が天正十一年(一五八三)大聖寺領主となって四万四千石で封ぜられた頃に修築したと推定される。本丸を始め二の丸・鐘ヶ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防備を固めていた。慶長三年(一五九八)溝口秀勝が越後新発田に転封した後、小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が七万石の領主として入城した。慶長五年(一六○○)、金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。同年八月三日早朝、山口軍千二百に対して前田軍は二万五千の圧倒的兵力で攻めたて、山口父子を始め多くの将兵が討ち死にした。殿閣を焼く煙は天にそびえたという。落城後前田利長はすぐに修築し城代を置いたが、元和元年(一六一五)の一国一城令によって廃城となり、以後再建されなかった。藩政時代はお止め山として一般人の入山を禁止したため自然回帰し、鹿や猪も生息していたという。現在でも貴重な動植物が多く、秋の紅葉の美しさから明治時代以後、「錦城山」と呼ばれ親しまれてきた。なお大聖寺という地名は、古代から中世に栄えた白山五院の一つ、大聖寺という寺名からといわれている。平成十四年十二月加賀市。