圧巻の青紅葉、特別公開中。
大徳寺黄梅院の特徴
臨済宗大徳寺派の歴史ある塔頭寺院です。
千利休が作庭した美しい枯山水庭園があります。
織田信長が建立した由緒ある場所で特別公開行っています。
大徳寺の塔頭の中でもだいぶ広い敷地を持っているだけあって、お庭も相当のものでした。また、あちこちにご住職の手書きの説明があり、由緒等を詳しく知ることができます。
春の特別公開で訪れました門を入った前庭のみ撮影可でそれから先は不可です拝観800円です織田信長公が父の追善供養のために小庵を建立させたのが始まりだそうです瑞々しい青紅葉がたいへん美しいお庭でした。豊臣秀吉が千利休に創らせ千成瓢箪をかたどった池がある「直中庭」は苔がたいへん美しいどこから見ても隙のない枯山水です本堂の「破頭庭」は天正期に作庭されたそうです水の流れ込む緩やかな波紋の他は凪いだ海原のように白砂が広がり心が落ち着きますいつまでも眺めていたいお庭でした。
秋限定公開ということで伺いました。受付をしてから写真は取れないので入口しか写真チャンスはありません。中では場所場所で説明をしてくれるので是非聞いて下さい。加藤清正が朝鮮より持ち帰った灯篭が素敵でした。庫裏で御朱印もお願いすると和尚様を呼んで頂き目の前で書いて下さいます。その内容も説明してくれます。主人も頂いたのですが書いてある文章は違うのもとても素敵ですけど。
なんと言っても広い!!特別拝観のみ公開で、織田信長の父の菩提寺です。手入れされた庭が何ヶ所もあり、どれも趣が異なります。庭に見とれて歩いていたら、昔の日本人は背が低かったのでしょう、重要文化財の建物に頭をぶつけました笑😅
5月19日特別拝観行ってきました。ここ凄いです。何か私的で申し訳ないのですが欠点が無いというか、写真されてる方は特に行ってみては?
21年10月14日に「秋の特別公開」に訪れました。『黄梅院』は織田信長が父・信秀の追悼菩提のために小庵を建立したのがはじまりです。受付から先の境内は庭園を含め写真撮影禁止でした。千利休が作庭した苔一面の枯山水庭園「直中庭(じきちゅうてい)」や、禅宗寺院において現存最古の庫裏(重要文化財)など拝観出来ました。「直中庭」は苔が素晴らしく、ゆっくり座って眺めていました。要所要所にガイド方がいて、庭園や建物について説明していただけました。
12/5迄の特別公開中です。必見です。織田信長など戦国武将ゆかりの寺院様。美しすぎる苔ともみじが圧巻です。千利休作庭の枯山水庭園の直中庭も素晴らしいです。ガイドしてくださいます。拝観料 大人800円。
千利休が作庭した数少ない庭園。秋の特別公開で訪問しました。京都で色々な庭を見てきましたが、ここのお庭は中でも、とにかく素晴らしい、の一言です。しっとりとすみずみまで行き渡った苔と、小ぶりに整えられた低木で、見た目にも美しいというのは勿論なのですが、滝から流れ出た水が大地をめぐって元の水源にかえっていくという表現や、豊臣秀吉ゆかりの瓢箪モチーフなど、この庭園の背景となるストーリーとも合わさり、500年前の情景を思わず想像せずにはいられません。まるで楽園、極楽浄土のような優雅な空間でした。拝観料は最初高く感じましたが、納得の素晴らしさです。館内にはスタッフの方が付かず離れずの解説てくださるのですが、この庭園をより理解し、楽しめたのは解説して頂いたおかげだと思います。中は撮影禁止です。
大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、織田信長が父親の供養のために建立のしたとされる寺院で、特定の期間だけ公開されるようです。庭園は千利休作とされ、信長亡き後に、大徳寺で葬儀を取り仕切った、秀吉が利休にオーダーしたと言われ、また、その庭の隅にある朝鮮灯籠は、加藤清正が大陸より持って帰ってきたと、されています。
名前 |
大徳寺黄梅院 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
075-492-4539 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
4.5 |
周辺のオススメ

臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭寺院のひとつ。織田信長が父信秀を追善供養するために創建。幸運なことに、特別公開で拝観できました。本堂(客殿、重要文化財) - 天正16年(1588年)に小早川隆景の援助により建立された本瓦葺・入母屋造の建物。禅宗特有の方丈建築で、内部の襖絵(重要文化財)は雪舟の画風を継承した毛利家御用絵師である雲谷等顔の作。室中の「竹林七賢図」や檀那の間の「西湖図」など44面が残る。本堂の前庭にあたる簡素な枯山水庭園で、天正年間(1573年 - 1592年)に作られたといわれる庭園「破頭庭(はとうてい)」や千利休62歳の時に作られたと伝える苔一面の池泉回遊式庭園である直中庭(じきちゅうてい)」など見所満載。なかでも、茶室「昨夢軒(さくむけん)」 - 千利休の師・武野紹鴎好みと伝わる4畳半の茶室。書院「自休軒」に組み込まれているが元は独立した建物で境内東南側にあり、書院建立時に移築されたという。