見附跡で感じる歴史の息吹。
日比谷見附跡の特徴
江戸城三十六見附の一つで、歴史を感じる場所です。
日比谷公園の石垣の近く、リラックスできる景観があります。
桝形の部分が残る数少ない見附跡で、貴重な体験ができます。
日比谷見附跡は丸の内警察署 日比谷公園前交番の隣の道から真っ直ぐ数メートル進むとあります。直ぐ側には日比谷門跡もあります。説明板には下記内容が書かれています。この石垣は江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。城の外側から順に、高麗門・枡形・渡櫓番所が石垣で かこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。当時、 石垣の西側は濠となっていましたが、 公園造成時 の面影を偲び、心字池としました。
江戸城外郭城門のひとつ、日比谷御門(ごもん)の一部。皇居エリアにはこのような巨大な石垣があちこちに残っていますね。どこを見ても巨大なのに精密で、感心してしまう。
日比谷見附は寛永6年(1629)に桝形は仙台藩によって、左右の石垣は広島藩によって築造された。「伊達治家記録」3月3日条によれば、名代として伊達安芸定宗、副役として茂庭周防良綱、諸役に片山伊勢成俊(成久)、新妻勘兵衛胤成らを任命している。工期は3月から7月。同時に数寄屋橋門桝形も築造しているから、かなりの突貫工事だったことがわかる。ここから日比谷公園内をさらに進んで行くとすぐに「伊達政宗 終焉の地」の説明版がある。政宗はこの普請から7年後の寛永13年にここ外桜田上屋敷跡で没している。
本当の日比谷門は交差点辺りです。江戸時代、この場所は内堀がありました。その名残で石垣が残されています。(以下抜粋)門の名は、中世のこの地域に日比谷村があったことに由来します。1614年(慶長19年)に熊本(現在の熊本県)落主加藤忠広によって石垣が築造され、1628年(花永5年)に仙台藩(現在の宮城県)伊達政宗によって門の石垣が構築されました。
江戸城外郭城門の1つである日比谷御門跡。石垣の一部が見事に遺構として残っています。石垣上部にはベンチが多数あり憩いの場、心字池を見下ろす静かなスペースがあります。都心なのか鳩は逃げず、池で休んでいたサギも逃げませんでした。
石垣の上には、日比谷公園に向かってベンチが並んでて、まったりできます。石垣の上から日比谷公園を歩いている人とそのうしろのビル群を眺めてました。
日比谷御門の一部の石垣が残っています(写真をUpしています)この石垣の先は、江戸時代の地図を見ますと、内山下堀と呼ばれているところとつながっていました。この堀が現在の「心字池」になります。
日比谷公園に来ました。
池の向こう側にみえる中央合同庁舎を眺めながらこのあたりが今でも日本の中心なんだなぁ。とぼんやり思う。
名前 |
日比谷見附跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3501-6428 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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江戸城三十六見附の中で最も低地にあり、標高およそ2m【※日比谷門から西におよそ600m地点の外桜田門はおよそ標高7.1m、ちなみに天守台と半蔵門の標高はおよ30mだそうです】家康が入城する前の日比谷一帯は日比谷入江と呼ばれた遠浅の湾でした桜で有名な千鳥ヶ淵の水はこの入江に注いでいました家康は武蔵野台地の縁を巧みに利用して築城しました武蔵野台地を削平し、その土で入江を埋め、平地を作りました日比谷一帯は大名の屋敷が立ち並んでいました見附門跡の近くには伊達政宗終焉の地という案内板があります現日比谷公園あたりは仙台伊達藩外桜田上屋敷がありました(1601年から1661年まで)家康公も秀忠公も家光公も訪れもてなしを受けたそうですまた1636年、正宗が亡くなる直前、三代将軍家光公は屋敷を訪れ正宗を見舞いましたこの門跡を入ると日比谷公園です。