平家の歴史を感じる場所。
盛久頸坐の特徴
盛久頸坐は平家の武将、平盛久の運命が尽きた場所です。
壇ノ浦の戦いでの逆境から、盛久が助かった逸話があります。
忘れ去られた歴史を感じる、特別な雰囲気の史跡です。
主馬盛久は平家の家人で、壇ノ浦の合戦の後逃亡していたところ北條時政に捕えられ、由比ヶ浜で斬首されそうになった時、持っていた経巻から光を発し処刑人の目が眩んで刀を落としたことにより助かったと言われています。盛久は清水寺の観世音菩薩を深く信仰しており、処刑前夜に霊夢を見たそうで、これを聞いた源頼朝は盛久を助命したとのことです。今は道路沿いに2つの石碑が残されています。
壇ノ浦の戦いに敗れ、平家が亡んだ後、平氏の武将盛久は京都に隠れて、清水寺で願掛けしていたところを、北条時政に捕えられ鎌倉に送られた。 1186年6月に、この場所で処刑しようとした時、刀が折れるという不思議なことが起きたため許され、それどころか、頼朝から領地を与えられたとのことです。日蓮聖人の処刑のときも同じような話がありましたね。盛久は清水寺の観世音菩薩を深く信仰していて、処刑前夜に観世音の夢を見たという話を聞いた源頼朝が、自分も同じ夢を見たからこれは観世音のお告げだといって命を助けたという話もあるそうです。そういえば、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、夢でお告げがあったとか、同じ夢を見たので、これは真実だといったエピソードがありました。領地まで与えるということは何か感じるものがあったのでしょうね。
忘れられた感が著しい。しかし、そこに確かに存在している。
主馬盛久は平家に仕えてきた累代の武将で、壇ノ浦での平家滅亡後、 京都で捕えられて鎌倉へ送られてきたました。しかし、由比ガ浜で処刑されそうになったとき、役人の刀が折れ、許されたと伝わっています。
名前 |
盛久頸坐 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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盛久頸座(もりひさくびざ)平家の家人だった平盛久が処刑されそうになった場所。盛久は、壇ノ浦の戦い後に逃亡していたが、文治2年(1186年)に京都で捕らえられ鎌倉に護送された。源頼朝より由比ヶ浜で斬首の刑に処せよと決まったのだが、盛久は日頃、京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたので、処刑前夜に観世音菩薩の霊夢を見たという。そして、文治2年6月28日にいざ処刑のときになると、盛久が持っていた経巻から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を落とし、太刀も2つに折れてしまったというのだ。これを聞いた頼朝は驚き、盛久を屋敷に招き「私も観世音菩薩の奇瑞の夢を見た。これはきっと観世音菩薩のお告げであろう。盛久はここで命を落とす器ではない。今後は源家に尽くして生きよ」と所領を与えられたという。※ 主馬(しゅめ)とは、馬や馬具を管理する役職のこと。