厄除け大師に会える、静かな境地。
輪王寺の特徴
上野駅から徒歩5分の場所に位置する、静寂な雰囲気の寺院です。
開山堂には慈眼大師と慈恵大師を祀っており、歴史を感じます。
承るご利益は厄除けで、多くの参拝客が訪れるスポットです。
東京の上野駅近くのお寺とても良い雰囲気で都内に居る感じじゃなくしてくるますね!
上野公園を散策しており、併せて訪問しました。敷地内は落ち着いた雰囲気で歴史的な建物などを見学でき良かったです。
上野駅公園口からほど近い、寛永寺の厄除け大師。いつも空いていて、ゆったりとお参りできます。ボケ防止祈願というのぼりも出ていたので、今度本格的に呆け防止祈願に参りたいと思います。門は10時オープンで、16時には閉まってしまいます。開けっ放しのお寺とは違いますので、参拝時間には注意が必要です。
寛永寺の本坊は、現在の東京国立博物館の地に建立されましたが、慶応四年の彰義隊の戦争により焼失し、現在はその表門だけが往時の姿を留めています。 幕末、この界隈で激しい戦闘が行われましたが、この門は耐え忍びました。門には現在でも官軍の攻撃による弾痕が数多く残り、戦争の激しさが伝わります(写真はありません)。国の重要文化財に指定されています。非常に目立つ建物で、徳川の菩提寺にふさわしい風格を漂わせています。
初めて寛永寺を訪れたが、何処から入ればいいのか分らず、最初に参拝したのが開山堂(両大師)であった。寛永寺の敷地は広大なので、この開山堂だけでも一つのお寺のようである。両大師と言われるだけあって、2体の大師が祀られている。堂内右手で御朱印の対応をしており、私は両大師の御朱印とそれぞれの大師の御朱印(いづれも書き置き)と切り絵の御朱印、計4種頂いた。
最寄り駅 JR上野駅より徒歩で15分程拝観料は無料 トイレ無し山号 東叡山宗派 天台宗本尊 阿弥陀如来寛永寺の開山・天海(慈眼大師)は寛永20年(1640年)に死去し、翌正保元年(1644年)、現・輪王寺の地に天海を祀る開山堂が建てられた。天海が崇敬する良源(慈恵大師、元三大師)を併せ祀ったことから「両大師」と呼ばれるようになった。との事です。境内敷地の片隅にひっそりと重要文化財である寛永寺旧本坊表門があり見逃し易く表通りからだと柵があり近づけなくなっていますが境内から回ると近くまでいけます。天海(慈眼大師)ともう一人の慈恵大師の元三大師である魔除けの姿(何だか悪魔みたいな姿)の旗がかなりありました。上野東照宮にもありますが套路が見事ですね。
角大師と呼ばれる良源は本当はかなりイケメンだったという話で、そっちの顔の肖像画もあれば良かったのにと世俗に塗れた私は思いました。鬼のお札、私も買ってみました。霊験灼(あらた)かだそうです。先に根本中堂に行ってしまうと、やや地味で、あれって思う(十分素敵なところなのに)ので、こちらから行かれるのをおすすめします。
開山堂(両大師)は、天海大僧正と彼が尊崇していた慈恵大師を祀ったお堂で、正保元年(1644)の創建。現在のお堂は平成5年(1993)に再建され、境内には後水尾天皇(1596-1680)ゆかりの「御車返しの桜」や見事な銅燈篭があります。「御車返しの桜」は、江戸時代以来の三代目。境内は整然と整備され、清掃も行き届いています。両大師の一人として祀られている天海大僧正(1525-1643)は、徳川家康を補佐した僧侶で、信長に焼き討ちされた比叡山の諸堂宇の再建を果たし、また上野に吉野山から桜を移植し、不忍池を蓮の名所とされた方でもあります。天海大僧正の和歌が山門に掲げられた説明板に紹介されていました。「気は長く、つとめは堅く、色うすく、食ほそうして、心ひろかれ」。百八歳まで長生きで、後世に残る大仕事をされた方の心構え、現代でも心に響きます。
上野のお山に大伽藍を設けた慈眼大師(天海大僧正)と慈眼大師が尊崇されたという比叡山中興の祖、慈惠大師良源をお祀りしているお堂です。境内参道には4基の銅燈籠があり、江戸時代初期のもので、もともと大猷院殿廟(家光のお墓)にあったものだといます。また、国重要文化財の旧本坊表門も観ることが出来ます。今回訪れた時(7月3日)は丁度堂の前のハス畑の古代蓮を一輪見ることが出来ました。こちらでは発見者の大賀一郎博士の名前をいただき、大賀ハスと呼ばれています。2000年以上前の種から株分けをして咲く大輪の花を存分に味わいました。
| 名前 |
輪王寺 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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本堂でお線香をつけ書き置きの御朱印をいただきました。