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名前 |
厳島神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
別名,下山口弁天。大熊元吉(志水居士)という江戸後期の篤志家に関する顕彰碑文であることが分かる。撰文謹書は,大宮氷川神社の官選の神主であった平山省齋。平山は,大熊元吉の三男が平山の門下の従者を務めていた由縁から,撰文の依頼を受けたものと分かる。また,文中に稲垣田龍が登場する。稲垣田龍は,江戸に出て天文学を学んだ与野の偉人。「稲垣の門下は,東浦和にも居たのか,こんな所に歴史の繋がりがあったのか,よくぞ石碑が残っていた」などと思うと感動する。以下,白文訓読文私訳文を載せる。漢文素人の訳なので,あくまでも参考程度に。\u003c白文\u003e大熊志水居士之碑志水居士諱元吉字明道姓大熊氏號志水居士又號化陽庵武藏國北足立郡大間木邨人父大熊五郎右衛門朝祝母大熊氏名美喜子以文化四年生家世郷望族居士天資温良謹敏夙夜勉作業及居士之世大起家産重義軽財好施與先鰥寡天保四年癸巳及七年丙申歳荐饑輙發金穀救濟數千百人生平守儉素痛斥奢侈凢遇有當費曾不恡情有餘暇則學文演武就稻垣玄節翁學天経皇典及撃劍精力絶人學通和漢旁渉天文地理兼善詩文及和歌以至俳諧圍棊之細皆莫不究其妙事親純孝與兄弟友惟樂其志片言隻行無悖父母之意與人交信而敬赴人緩急風雨疾病不爽晷刻小事如是况於大事乎故隣里郷黨景慕如神天保十三年壬寅九月二十一日罹病而卒享年三十有六卒之日吊者數千人無不哭泣者葬于本邨先塋之次如居士之才之徳假令立於廟堂則為蒼生霖雨以澍天下矣嗟夫天烏優其徳而嗇其壽乎哉配石關氏擧二男二女長曰正名克紹先業不墜家聲頃者將鐫先考之遺徳於貞珉以之下山口里厳島神祠傍以傳不朽作??(確認ミス)余銘之正名第三子駿二有才學幼遊余之門義不可辤為之銘曰(以下漢詩略)\u003c訓読文\u003e志水居士の諱は元吉なり。字は明道,姓は大熊氏,号は志水居士,また,化陽庵と号す。武蔵国北足立郡大間木村の人なり。父は大熊 五郎右衛門 朝祝。母は大熊氏,名は美喜子。文化四年,家に生まる。世(ヨヨ),郷の望族なり。居士の天資は温良謹敏なりて,夙夜(シュクヤ)作業に勉める。居士の世に及び,家産を大いに起こすも,重義軽財,先ず鰥寡(センカ)に施与(セヨ)することを好む。天保四年癸巳および七年丙申歳の荐饑(ハンカ?)。輙(スナワ)ち,金穀(キンコク)を発(ハナ)ちて,数千百人の生平(セイヘイ)を救済す。倹素(ケンソ)を守り,奢侈(シャタ)を痛斥(ツウセキ)し,凢(オヨ)そ,費(ツイエ)に当たること遇(タマタマ)有りて,曽(マスマス)情を恡(オシマ)ず。余暇有りては,則ち,文を学び,武を演じ,稲垣玄節翁に就きては,天経・皇典を学び,撃剣に及びては,精力は絶えず,人に学びては,和漢に通じ,天文・地理に旁(アマネ)く渉り,詩文および和歌を兼ねて善く,俳諧・囲碁の細に至るを以て,皆究めざるはなし。その妙は,親に事て孝に純じ,兄弟友に与えて,これ楽(コノ)む。その志は片言隻行にして父母の意に悖ることなく,人と信を交わして敬なり。人の緩急風雨疾病に赴き,晷刻を爽かず,小事かくのごとく,况や大事においてや。故に隣里(リンリ)郷黨の景慕(ケイボ)は神のごとし。天保十三年壬寅九月二十一日,病に罹りて卒く。享年三十有六。卒の日,吊う者数千人,哭泣せざる者なし。本村に葬いて,先塋の次の如し。居士の才,の徳,たとえ廟堂に立つとも,蒼生霖雨と為り,以て,天下を澍(ウルオ)す。嗟夫(アア),天は,いずくんぞその徳を優らんや。而(ナンジ),その寿を嗇(オシ)まんや。石関氏を配し,二男二女を挙げる。長曰く,「名を正し、先業を克く紹ぎ,家聲を墜さず,頃者,將に貞珉に先考の遺徳を鐫せんとす。之を以て,下山口里の厳島神祠の傍,以て,不朽に伝う。??を作り,余(撰文者の平山省齋)は之を銘じ,名を正す。第三子駿二は才学ありて、幼(オサナキ)は余の門義に遊ぶ。このため、辞するべからず。銘じて曰く(以下漢詩略)\u003c私訳\u003e「志水居士の諱は元吉である。字は明道,姓は大熊氏であり,号は志水居士,また,化陽庵と号した。武蔵国北足立郡大間木村の人だった。父は大熊 五郎右衛門 朝祝。母は大熊氏で,名は美喜子といった。文化四年,家に生まれる。昔から里の名門であった。居士の天性は温良謹敏であり,一日中労働に励んだ。居士が当主になり,家の財産を大きく増やしたが,財よりも義に価値を置き,真っ先に老齢のヤモメや未亡人に施しを与えることを好んだ。天保四年と七年の飢饉に際して,貯めていた金銭や穀物を分け与え,数千百人の日常生活を救済した。倹素な暮らしを守り,贅沢を痛烈に非難し,総じて偶発的な出費が有らば,情けを少しも惜しまない。暇さえあれば,学芸と武道に邁進,稲垣玄節翁(稲垣田龍 ; 現中央区に実在した偉人)を師事しては天経と皇典を学び,撃剣に関しては精力絶えることなく,人に教えを乞うては和学と漢学に通じていた。そして,天文学や地志学に広く精通し,また,以前から詩文と和歌に秀でて,なおかつ俳諧と囲碁の道でさえも極めていた。その類い稀なる才能は,両親に尽くすことで「孝」に純じさせられ,また兄弟や友にこれを与えることを好んだ。その志は,言葉少なく即座に実行であり,それは父母の気持ちに悖ることはなく,人と「信」を交わしては尊敬されたのである。人の危機的状況に駆けつけては,一瞬たりとも損なわない。小さな事でもこんな感じなので,大きな事では言うまでもない。そのため,地元の人々の景慕は,まるで神様を見るかのようだった。天保十三年九月二十一日,病に掛かって死ぬ。享年三十六歳。居士が死んだ日,弔う者は数千人,哭泣しない者はいなかった。本村に葬いて,先塋の次の如し。居士の才能と人徳は,たとえ廟堂にあったとしても,人々に降り注いで,天下を潤す。ああ,天よ,その徳のどこが優れているのか。お前は居士の寿命が惜しくないのか。(居士は)石関氏と結ばれ,二男二女をもうけた。長兄が言うに「父の名分を正し,家業をよく継いで,家の名声を落としません。すぐに亡父の遺徳を石碑に刻みましょう。そして,下山口の厳島神社の傍らで,これを不朽に伝えるのです」と。??を作り,私はこれを銘じて,居士の名分を正した。というのも,(居士の)第三子である駿二は才学があって,小さい頃,私の門下に仕えていたからだ。この由縁から,(撰文を)断ることはできない。銘じて曰く(以下,漢詩略)」