壮大な格式、八嶋の神秘。
大神神社の特徴
約1800年前に創建された由緒ある神社で、格式の高い造りが目を引きます。
長い参道が続く境内には、巨木が生い茂り荘厳な雰囲気を醸し出しています。
奈良の大神神社の分祀として知られ、神秘的なパワースポットとして人気です。
約1800年前頃、第10代崇神天皇の皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)による創建と伝えられる由緒ある神社です。予備校講師の茂木誠先生が自身のYoutubeでご紹介されています。以下、栃木市観光協会サイトより「大神神社を室の八嶋大明神ともいい、大神神社内にある八つの島には、それぞれやしろ(浅間神社、二荒山神社、筑波神社、雷電神社、香取神社、鹿島神社、熊野神社、天満宮)を祀っています。」池には鯉(主に野鯉)が放たれています。社務所が開いていれば鯉の餌を買って、あげることができます。鯉がいる二宮の白蛇神社(白蛇辨財天)と並び、自分の好きな神社です。
様々な歌集で歌に詠まれた室の八島や松尾芭蕉で有名な神社。下野の国の総社なので、たくさんの神様に出会うことができますよ。
日曜日の昼前に参拝してまいりました。昨年、奈良の三輪明神大神神社に参拝してまいり、栃木県の大神神社にも是非と思っていたので叶えることができました。この日は、お祭り(?)、準備(?)と言う事で御朱印は書き置きでしたが、榊と御札をいただくことができました。派手さはございませんが、趣、歴史を感じる素晴らしい神社でした。
奈良の大神神社ほどの広さは無いですがそれなりに歩くと広いです。池や御神木等見て回れました。桜も咲いてて見事でした!御朱印は書き入れでした(笑)有りました。
大神神社(おおみわじんじゃ)は栃木県栃木市惣社町にある神社。式内社(小)論社、下野国総社。旧社格は県社。古くは「下野惣社大明神」「惣社六所大明神」「室八島惣社大明神」などの別称があった。主祭神倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)『出雲国造神賀詞』では大物主命を指す。大神神社(奈良県桜井市)からの分霊。崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(大田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依毘売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。『日本書紀』では、崇神天皇が大物主から夢で直接に神託を得るまでの亀卜や沐浴斎戒、宮殿内部の潔浄と言った祭祀の過程と内容が詳細に記され、天変地異が収まった翌年に大神神社に奉る酒の管掌に高橋邑の人活日が任命されている。配祀神木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)瓊々杵命 (ににぎのみこと) - 木花咲耶姫命の夫神大山祇命 (おおやまつみのみこと) - 木花咲耶姫命の父彦火々出見命 (ひこほほでみのみこと) - 木花咲耶姫命の子。火遠理命に同じ創建社伝では、崇神天皇の時代に豊城入彦命(崇神天皇皇子)が東国平定の折に戦勝と人心平安を祈願し、当時から広く名を知られた室の八嶋(むろのやしま、室の八島とも記す)に、崇神天皇が都とした大和国磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)に座した大三輪大神(大神神社)を勧請したのが創建とされている。概史平安時代中期の『延喜式神名帳』には「下野国都賀郡 大神社」の記載があるが、当社をそれにあてる説がありその論社とされている。また、古代の国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの下野国の総社にあたるとされる。当社の南方約2.8kmの地には下野国庁跡も発掘されている。平将門の乱により被害を受けたが、藤原秀郷らの寄進により再建され、室町時代まで社殿は広く立派であったと伝える。しかし戦国時代に、皆川広照の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し、荒廃した。その後、徳川家光による社領30石と松の苗1万本の寄進などにより、1682年(天和2年)に現在の形へと復興したという。しかしながら、実際には明治時代より以前の史料で当社を明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていない。「実際のところは、都から遣わされた国司が大和国の大神神社(大三輪神社)を別の場所で祀っていて、これが下野惣社大明神に合祀され同化した」といった説もあるなど、その歴史は必ずしも詳らかとは言い難い。明治維新後、明治6年に近代社格制度において郷社に列し、明治40年に神饌幣帛料共進神社に指定、明治44年に県社に昇格した。1924年(大正13年)に社殿の大改修、1993年(平成5年)に室の八嶋の大改修などが行われて現在に至っている。なお、古来より社家大宮司は國保家が代々世襲していた。神階元慶4年(880年)8月29日、従五位下から正五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「三和神」で、当社にあてる説がある。室の八嶋(むろのやしま)は、古来の和歌などに歌枕として見られる地名。当社境内の池中の島をその跡と伝える(ただし後世の付会とする説もある)。奈良時代の昔から、歌枕として都にまでその名を知られ、『万葉集』や『古今和歌集』をはじめとする多くの和歌集などに登場する。主な歌いかでかは 思ひありとも 知らすべき 室の八嶋の 煙ならでは - 藤原実方(『詞花和歌集』)人を思ふ 思ひを何に たとへまし 室の八島も 名のみ也けり - 源重之女(『続後拾遺和歌集』)煙たつ 室の八嶋に あらぬ身は こがれしことぞ くやしかりける - 大江匡房(『新拾遺和歌集』)いかにせん 室の八島に 宿もがな 恋の煙を 空にまがへん - 藤原俊成(『長秋詠藻』)暮るる夜は 衛士のたく火を それと見よ 室の八島も 都ならねば - 藤原定家(『新勅撰和歌集』)歌枕としての意味木花咲耶姫命が一夜にして懐妊したためその貞操を証すべく、自ら火を放った室の中で三柱の神を産んだ、とされる神話の舞台。また転じて、竈(かまど)の煙(八嶋は竈の古語であるとの説もある)。思川の低湿地であることから、水煙や清水の沸く土地。これらが転じて、燃え上がる恋の炎に身を焼く煙。糸遊(いとあそび、いとゆう)。煙が更に転じたものとも考えられるが、「陽炎[要曖昧さ回避]」「蜘蛛が糸を引いて飛ぶ」など作者の真意は様々で、定かではない。当地を訪れたとされる松尾芭蕉と曾良は『奥の細道』に、室の八嶋の由緒などを曾良の言として記しているが、俳句は載せていない。しかし、後年曾良が著した『俳諧書留」に、芭蕉の句として「いと遊に結びつきたるけふりかな」が記されており、これが当社の境内に句碑として建立されている。1869年〈明治2〉3月、江戸後期の俳人である杲雲閣春峰が建立し、江戸後期に活躍した書家の萩原秋巌による筆とされる。現在見られる「室の八嶋」は、杉木立の中の掘割に、小さな祠を戴く8つの小島がある、およそ800坪ほどの庭園状の場所であり、水煙や湧き水などは観られない。8つの祠には、筑波・天満・鹿嶋・雷電・浅間・熊野・二荒山・香取の各名神が祀られている。大神神社(おおみわじんじゃ)は、栃木県栃木市惣社町にある神社。式内社(小)論社、下野国総社。旧社格は県社。古くは「下野惣社大明神」「惣社六所大明神」「室八島惣社大明神」などの別称があった。
「糸遊に結びつきたる煙哉」松尾芭蕉創建は約1800年前頃、第10代崇神天皇の皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)によると伝えられています。大神神社を室の八嶋大明神ともいい、大神神社内にある八つの島には、それぞれやしろ(浅間神社、二荒山神社、筑波神社、雷電神社、香取神社、鹿島神社、熊野神社、天満宮)を祀っています。夕方にお参りさせていただいたので、社務所は無人でした。境内は静かで気持ちがいいです。こちらの御朱印は、墨に金粉を混ぜているのかキラキラしていて素敵です。前回いただいた御朱印も載せておきます。駐車場は、広くて停めやすいです。
仕事で近くに行ったのでパワースポットでパワーチャージして来ました。とても広くやはり神社⛩独特の澄んだ空気感近くに行ったら是非写真に黄色い龍みたいな🐲光が。
今年の初詣は栃木県野州大塚駅から約1キロに有る大神神社、東武日光線の行きは接続が良いが、帰りはほぼ1時間に1本の割合で便が良くありません。駅から徒歩でゆっくり歩いて約15分程度です、去年は10月に奈良県桜井市の大神神社に行きましたが、ここの分霊を纏わる神社です。駅も無人でのどかな町です。神社の規模はそれ程大きく有りません、どちらかと言うと地元の神社という感じを受けました。
初めて行ってきましたがとても立派な神社です⛩境内も立派ですが敷地が広くまたその雰囲気は荘厳そのもの。行ったことのない方はぜひ。
名前 |
大神神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0282-27-6126 |
住所 |
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HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-tochigi/jsearch3tochigi.php?jinjya=1434 |
評価 |
4.2 |
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東武電車の野州大塚駅から歩いて20分 こちらのお宮さまは奈良の三輪山ふもとの大神神社にゆかりあって同じお名前です どこまでが社地なのかと思ったほどに長い参道が(駅とは反対側)につながり 境内には大木鬱蒼 社殿もご立派で 参拝の甲斐もありました。