新潟の歴史、直峰城探訪。
直峰城跡の特徴
国道403号からのアクセスが良く、車で簡単に訪れられます。
本丸跡までの道は整備されており、登りやすく快適です。
遺構は残っていませんが、説明看板が多数あり視覚的楽しみがあります。
標高344m、駐車場🅿️の標高240m説明板が3つ掲げてあるトイレ🚾に無料パンフレットがあった👍️大手道方面から登ると数多くの曲輪に〇〇屋敷跡、門跡の表示がある堀切♬はカメラに収まらない大きさ切岸♬の角度と高さもスゴイ😮主郭の眺めは麓の街並みから遠くの山々まで見える😃二の丸間の堀切♬もデカイ北尾根に下りてみると ザックリ連続堀切♬が虎ロープ付きで登り下りが大変でウレシイ🤭三の丸から西尾根に下りるとやっぱり連続堀切♬...は夏草に覆われて ほとんど見えない➰😅(22/8)駐車場に下りる途中も数々の曲輪に屋敷跡の表示があった数えきれない曲輪にたくさんの〇〇表示がされてる親切整備なトコロ😉
国道403号から城跡南側駐車場まで舗装されて、車でのアクセスは容易です。トイレ内にパンフレット置かれていて至れり尽くせりです。登城路が整備されていて本丸経由で周回できます。各所に人名の曲輪があります。駐車場から北西の階段を進むと、幾つもの曲輪を経て、迷うこと無く主郭部西側に至ります。主郭部は削平され西側は比較的広い曲輪になっています。北側に細尾根ありヤブ化しています。一段高いところに本丸が有ります。、西側に堀切があり、石碑と建物が建っています。北側、東側は鋭い切岸になります。北西の市街地が眺望できます。東側に降ると物見台?の曲輪があり、城跡東側の急斜面を見ながら降っていきます。人名の着いた段々の曲輪を経由し大手の虎口の土塁を出て、駐車場のほうに戻りました。253号や北越急行が近くを通り、交通の要衝であることが窺えます。
駐車場、トイレから本丸跡まで登ること15分、本丸跡までの道は良く整備されている。途中家臣の屋敷跡が多数ある。本丸跡は細く長く広い。所々展望ある。ふもとの三国街道を監視する重要な拠点であった。
登りやすい良い山城。
謙信公が関東遠征の為に普請した旧三国街道沿いにある山城です。駐車場から整備された山道を徒歩15分で登れます。
此処へ行く迄の道路は狭いけど、ソコソコの駐車場はあるしトイレもあります、建物は残っていないけど〇〇跡と説明があります、天気がよかったので眺めはとてもよかった、こんな場所のお城って毎日登ったり降りたり昔の人は足腰丈夫ですね、水なんかどうしていたのでしょうか?
それほどメジャーな城跡ではないので道はそこまで整備されていませんが、駐車場から20分程度で安塚を見下ろせます景色はなかなかです。
きれいに整備されて案内表示もあり、良いところでした。トイレもきれいです。
建造物は残っていませんが道は整備されていて説明の看板もたくさんあります。
| 名前 |
直峰城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
025-592-2003 |
| HP |
http://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/yasuzuka-ku/yasuzuka-nouminejou.html |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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直峰城は14世紀半ばの南北朝時代、新田義貞率いる南朝方の武士である風間信濃守信昭が城主を務めていたと言われてます。16世紀世紀前半の戦国時代初期、越後国守護代・長尾為景(上杉謙信の父)の家臣・吉田周防守英忠が城主を務めてました。天正6年(1578)3月13日に越後国主である上杉謙信が亡くなると謙信の二人の養子である上杉景勝・景虎の後継者争いである「御館の乱」が勃発します。当時の同城主である小日向隼人佐は景勝方として活躍しました。天正12年(1584)に樋口兼豊(直江兼続の実父)が同城主を務め慶長3年(1598)には上杉景勝が陸奥国会津(福島県会津若松市)移転すると、代わりに越後国春日山城に入った堀秀治(豊臣秀吉の家臣)の一族の堀伊賀守光親が同城主を務めてました。堀氏が改易になった慶長15年(1610)に廃城となったと考えられてます。