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名前 |
熊野劔宮址(大塔宮劔神社址) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
案内に「竹原兵庫守は、曾て親王(大塔宮護良親王)より拜領の御寶劔を御靈代として、小川の地に熊野劔宮として祀るに至った」とありますが、竹原兵庫守でなく平賀三郎國綱が祀ったとの説もあります。寧ろ、その方がしっくりする氣も。この御寶劔、天下五劔の一振に數へられる鬼丸國綱を作刀した名匠、粟田口國綱の手なるものだったりして、と妄想。當時、「國綱」と云へば刀劔を聯想するのが通常だったと思ふのですが、それを平賀が敢へて自らの名としたのは理由があると思ふのです。親王と共に在った歳月を生涯忘れまいと云ふ決心を、御形見となってしまった刀劔から名を藉りて自らに刻み附けたのではないか、と。平賀氏の通り字に「國」も「綱」もなささうなのに「國綱」を名宣るのは、通常なら不自然だと思ひます。改名した可能性もありますね。平賀を始祖とする田上氏は「朝」を通り字にしてゐた感がありますので、平賀は朝雅(京都守護職で「朝」の字は源頼朝の名から)の子孫かも知れません。妄想に妄想を重ねてみませう。粟田口は後鳥羽院が隱岐に流される際、隨行する程に親交がありました。後鳥羽院は平賀義信の子、惟義と朝雅を重用してゐました。平賀氏が粟田口の刀劔を持してゐた可能性は高いのでは、と思ひます。親王がかうした經緯を踏まへた上で平賀に縁のある刀劔を下賜したかも知れないと考へるのは、話が出來過ぎてゐますかね。註:繰り返しですが、以上は飽くまで妄想です・・・(敬稱略)