儀保町の歴史を感じる井戸跡。
ウォーキングで巡る那覇の河川・樋川・井戸・湧水その17 【那覇市首里儀保町4丁目】古くから儀保町にあった井戸跡。この井戸や宝口樋川の豊富な水を用いた宝口紙漉所では、百田紙やウチカビが作られていたらしい。
名前 |
儀保紙漉所跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://oki-park.jp/shurijo/shuri-aruki/siseki/2014/03/post-104.html |
評価 |
2.5 |
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琉球王国時代から昭和初期にかけての紙漉所跡。宝口の紙漉所ともいう。琉球における紙漉の技術は、大見武憑武が 1686年鹿児島へ赴き造紙法を修行。帰国後の 1695年に首里金城村に宅地を賜り、杉原紙・百田紙を漉いたのに始まる(金城の紙漉所)。1717年祖慶清寄・比嘉乗昌らが芭蕉紙を始めて作り、翌年王府の援助を受け首里山川村に一宅を設けて紙漉所とした(山川の紙漉所)。以来、カジノキ・糸芭蕉・青雁皮を原料に、色半紙・広紙・ 奉書紙・百田紙・藁紙なども作られた。宝口の紙漉所は、1840年首里儀保村の一角「宝口」に家屋を建て製紙区域とし、製造が途絶えていた百田, 紙の製作を行わせたのに始まる。これにより宝口では 百田紙、山川では芭蕉紙が作られたとされる。紙漉は王府の役所「紙座」の管理のもと行われたが、1879年(明治 12)の琉球処分の後も、この一帯では民間の手で紙漉が続けられた。-案内板より-