歴史を感じる曲渕城跡と山神社。
曲渕 山神社の特徴
曲渕城跡と山神社が同じ場所にあり、歴史を感じられます。
村社として定められた山神社の由緒がとても興味深いです。
国道近くの小さな橋たもとの入口が目を引く神社です。
国道の小さな橋のたもとに入口がある。階段を結構登る。曲淵城跡でもある。
村社 山神社 早良郡内野村字曲淵字城山祭 神 大山積神,岩永姫命,木花開耶姫命由 緒天暦四庚戌年創立,明治五年十一月三日村社に定めらる。元福岡懸筑前國早良郡内野村大字曲淵字下り谷に鎮座ありしを大正六年七月六日許可を得て移轉す。社説に曰わく,天暦四年,小國源左衛門丞藤原供重創立。天文五年丙申八月波呂新左衛門社殿を改築す。福岡市水道水源地設置のため城山に改築五月移轉せり,五月十八日は毎年盛大なる移轉記念祭斎行す。四月十八日は百手と称して五穀豊穣祈願のために氏子民全部にて的射の行事を行ふ。又十二月一日には御禮の御祭として日待祭を仕奉る。例祭日 十月十八日神饌幣帛料供進指定 大正十三年十月九日主なる建造物 社殿,神殿,渡殿,拝殿,社務所境内坪数 五百坪氏子区域及戸数 早良郡内野村曲淵区全部 三十三戸境内神社 須賀神社(素盞嗚命)由緒不詳,大字曲淵字谷山に鎮座有りしを大正六年七月六日許可を得移轉す。福岡県神社誌 中巻ーーーーーーーーーーーーーーーー平成18年10月 ふるさと早良会曲淵城(まがりぶちじょう)曲淵河内守 一介の鍛冶屋が城主へ山神社は,もと水源地の場所にあったが,ダム建設のとき湖底に水没するためこの城山に移された。石段を登ると城跡がある。(石段百段は地元の方の手で)城主であった曲淵氏については「筑前国続風土記」や「早良郡志」などに記されている。元亀・天正(一五七〇-九二年)の頃,一介の鍬造りの鍛冶屋甚五兵衛が戦国の風雲に乗じて曲淵城主となり,名も曲淵河内守と改め高祖城の原田氏に属して早良十一ヶ村(石釜,西,金武,四箇,次郎丸,田,野芥,七隈,荒江,麁原)を領し武威を誇っていた。城跡は,神社を中心にして本丸,二の丸が設けられていた。「東西十五間(およそ二七メートル),南北二十間(およそ三六メートル)」の広さで,ここも典型的な戦国時代の山城である。神社の裏側に堀切らしい跡が残っている。天正一五(一五八七)年高祖山落城とともに曲淵氏も亡び,河内守は浪人となったと伝えられている。城主には助次と氏助信助等の名が記されている。代々河内守を名乗る。城主三基の墓薬師堂(曲淵家菩提寺,医王山長福寺跡)の裏手にある。200m曲淵五重石塔 曲淵小学校敷地内肥後の国の落人「小国孫右衛門」をとむらうために孫娘(尼)がこの地に建立し千部の経を納めたと伝えられている。曲淵には古来言い伝えられている歌詞がある「早良郡志」朝日さす夕日ちらちら木下小金千両朱千両埋め置く(小金-黄金)この歌は金屋一党が住んでいた場所とか。社前掲示板ーーーーーーーーーーーーーーーーとんでもないことが書いてある。「朱」は水銀かな。金屋一党って…古代から精錬の技術があった所なのだろう。4kmほど南に「金山 967.3m」がある。
城跡らしいですね。
名前 |
曲渕 山神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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曲渕城跡 兼 山神社 といった感じでしょうか。目の前の駐車場的なところは、閉鎖されていますので、(近くの公民館の駐車場?を借りていいのでしょうか、、)といったところです。石段を上がって行くと、何度も蜘蛛の巣があり、今の時期は大変でした。お社には、古い絵や写真があり、いろいろ歴史が気になりました。