上原勇作が整備した お墓の歴史探訪。
都城六勇士之墓の特徴
広大なお墓で目的の場所を探すのが難しい気持ちにさせる場所です。
六勇士の一人、上原勇作さんが整備したという碑が隣にあります。
薩摩藩士六名の歴史的背景が感じられる貴重な墓地です。
陸軍大臣、陸軍元帥を歴任し、六勇士のうちの1名の兄でもある上原勇作さんが墓を整備した旨、墓の隣にある碑に記述があります。風化して読み取りにくくなっていますが、当時の武士の気概を感じることができる貴重な資料です。
大政奉還後の伏見警護の都城出身の薩摩藩士六名が斥候の際に徳川方と遭遇するが闘いを避け帰還後に報告した。直後に都城隊が東寺に陣の移動を命じられ、これを戦闘を回避した処分と理解し東寺の僧阿刀宅で切腹。憐れんだ僧阿刀も後を追い切腹し7名が狐塚墓地に葬られました。当時の人たちのメンタリティーのあり方がよくわかる逸話です。経緯を記した石碑と7基のお墓が並んでいます。最近風化の激しい六勇士のお墓が新しくなっています。
名前 |
都城六勇士之墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/mi026.html |
評価 |
4.3 |
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お墓が広大で 目的の墓を探すのに 苦労した 。Google Mapで 墓地を拡大して ようやく見つけられた。宮崎県の 都城市から 薩摩藩兵として 京都伏見の見回りをしていた 6名の 兵士が、 徳川方の 武士と遭遇し 戦いを避けて戻った 。その時に 敵に背を向けたとして処罰を 受けるものと勘違いした。この6名は責任を感じて 切腹したという。 その6名の墓がここに葬られている。 墓 そのものは かなり 風化して、全て ここ数年で新しいものに取り替えられた。 墓の 側面には 彼らが 切腹した 慶応3年の日付が刻まれている。 また 端には大きな石碑が建っており、事の経緯が彫られている。