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| 名前 |
鵜森伏越樋跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
|
鵜森伏越樋とは大垣藩士伊藤伝右衛門が作った伏越樋、現在で言うカルバート伊藤伝右衛門は大垣藩の要職である大目付役、郡奉行本役を歴任、伏越樋御用係を任ぜられ、工事を監督しました大垣藩は水害が多く特に今村、古宮、牧、祖父江の各輪中内と横曽根村などは、特に被害が大きかった鵜森付近で合流する揖斐川と牧田川の川底が土砂により高くなり、排水できない為、悪水が輪中内に溜まるためだったそこで大垣藩7代藩主戸田氏教は、伝右衛門に鵜森伏越樋の工事を伊藤伝右衛門に命じた工事は、横曽根村と塩喰村の鵜森とを結ぶ揖斐川の川底の下に約130メートルの伏越樋(木製のトンネル)を作り、揖斐川下流へ流すという工事だった工事は天明3年(1783)から5年(1785)までの3年の月日をかけて完成しかし、大水になると揖斐川方面に激しく流れたため、伏せ込んだトンネルを洗い流し失敗、工事をやり直すことになり伏越樋が地上に出たところから、さらに4800余間排水路を南下地の対岸で放流することにしましたこうして天明5年(1785)完成工事が完成した天明5年5月23日、伊藤伝右衛門は自宅にて自刃、工事が成功しなかった事への責任をとったと思われる。