皇女和宮ゆかりの静かな宿場町。
中山道 大湫宿の特徴
中山道の47番目の宿場町として歴史的価値がある場所です。
皇女和宮が宿泊した歴史を感じられる貴重なスポットです。
山道の風情が魅力的でのどかな雰囲気が広がっています。
中山道六十九次47番目の宿、大湫宿。中山道の元となった律令時代からある東山道では、大井宿(恵那)から御嵩宿までは今の中山道よりもずっと南の平地部分を通るルートであったが、江戸時代初期に中山道を作った際には、北寄りの山道を歩くルートに変更され、大井宿と御嵩宿間が八里(約32Km)あるため、まずは1604年に大湫宿が作られた。往時、人口は338人、戸数は66戸、宿場の長さは3町6間(338m)。本陣(大名が泊まる宿)1軒、脇本陣(大名の家臣が泊まる宿)1軒、旅籠は30軒もあった。実に2軒に1軒は宿屋をしていたことになる。場所は美濃国だが、尾張藩領になっている。これは関ヶ原の戦いで、美濃を領地としていた武将たちのほとんどが西軍に属したことで、江戸時代初期には改易されて美濃のほとんどは幕府領になっていた。しかし、尾張藩祖・徳川義直が、慶長十二年(1607年)に尾張一国を与えられ、続いて元和元年(1615年)豊臣氏を滅ぼした家康は、大阪からの帰途に名古屋に立ち寄り、義直の結婚資金と称して木曽山及び木曽川沿岸の美濃国57ヶ村を尾張藩に組み込んだ。このため、大井宿から鵜沼宿までは尾張藩領となった。
皇女和宮御降嫁の際に泊まられた宿場町で、ものすごく静かな所です✨所要時間は短めなので近くの竜吟の滝と一緒に巡るのもいいかもしれません✨
盆休み明けの平日に散策。カフェは週末のみの営業で少し寂しい宿場でしたが、無料案内所の方々に詳しく案内して頂いて、大変良かったです。四季折々の宿場を訪ねてみたくなりました。
中山道47番目の宿場町で、皇女和宮御降嫁の際に宿泊された宿場の一つです。応時の雰囲気を忍ばせるような建物が多く残っています。
美濃十七宿の中で最も高地にあり、険しい峠道を超える難所の地に新設された宿場。皇女和宮や数人の宮姫が宿泊した事で知られる。宿場内の神明神社には樹齢千三百年の大杉が存在したが、近年倒木してしまった。
宿場町の街並みが残っています。通りの家々に昔の屋号が付いていて、ずっと宿場だったと感じる事が出来ます。江戸時代に細久手と大湫の暗い山道を歩いていたのだと思うと、日が暮れるのが早い山の中だから宿場に辿り着いたら、ホッとしたと思います。コミュニティセンターにも資料が掲示されていました。大湫神明神社の大杉は倒れてしまいました。倒れている大杉を間近で見たら、その幹の太さを実感できました。
歴史を感じます。看板に中山道ではなく中仙道と書いてあった。
中山道はたいがいR19沿いの川筋にありますが大湫宿から細久手宿にかけては完全なる山道になってしまいます。平野部を遠回りするのでなく急峻でも山歩きで距離を短くした感じの道筋になってます。クテというのは地形がくねくねした山坂や狭間の多い場所という意味らしいです。馬籠や妻籠のような観光地化された雰囲気ではないですが細久手宿よりは見所が多いです。
妻籠や馬籠のように大きな宿場ではありませんが、とても静かでのどかな雰囲気が漂う古い宿場町です。古い建物や大きな杉の木があり、付近を散歩するといい感じです。
| 名前 |
中山道 大湫宿 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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地名は「おおきな湿地」の意からきており、近世初頭までは「大久て(おおくて)」と書いたが、尾州藩により以降は宿名としては「大久手」、村名としては「大湫」と書くことが定められた、という。______________❶【参考 中山道道しるべの旅 1982年】「大湫(おおくて)」の「湫」とは湿地のことで、地名のおこりとみられ、公用文書類は当初から大湫を用いていたが、庶民の間では明治の末頃まで「大久手」を用いていたという。江戸の紀行文「壬戌紀行(じんじゅつきこう)」や「五街道中細見記(さいけんき)」でも庶民的な「大久手」と記されているが、現在では大湫が使用されている______________❷【参考 故郷の歴史 1983年】地名は「おおきな湿地」の意からきており、近世初頭までは「大久て(おおくて)」と書いたが、尾州藩により以降は宿名としては「大久手」、村名としては「大湫」と書くことが定められた、という。旧中山道は東海自然歩道となり、大湫宿の中央部の新明神社大杉、朴葉沢のヒトツバタゴ自生地らが県天然記念物のほか、大湫宿内の屋並びはよく、むかしの面影を残していて、一里塚、石畳、石造物らとともに貴重で、町民による保存活動も徐々に盛り上がっている、とある。