李鴻章が宿泊した由緒ある寺。
浄土宗 引接寺の特徴
西南戦争の官軍墓地が佇む歴史深い場所です。
李鴻章が宿泊した由緒あるお寺です。
名工左甚五郎作の龍の彫刻が残る三門があります。
李鴻章が宿泊に利用した寺らしい。襲撃場所も近くらしいが、探しても場所がわからなかった。
訪れたときは、誰も居ませんでした。
日清講和条約の宿泊所になったお寺。門の上に泣き竜が。
日清会談の際、李鴻章が襲われた場所です。負傷するも階段を徒歩でのぼり、清国全権の気概を見せました。
平成31年4月9日参拝庫裏にて御朱印拝受しました。
李鴻章が泊まっていた場所。
本堂がコンクリート製なのは残念ですが、天井に龍の彫刻のある山門が残っています。歴史が古く、日清講和条約にも所縁のあるお寺だそうです。
名工左甚五郎の作と言われている大きな龍の彫刻がある三門で有名。この龍が引接寺の前を通りかかった人を襲ったという伝説がある。江戸時代には朝鮮通信使の逗留場所であり、日清講和会議の清国全権李鴻章が滞在した場所でもある。引接寺から春帆楼に通じる小道は李鴻章が講和会議に通った道として「李鴻章道」と名付けられている。
日清講和談判を行った李鴻章が宿泊に利用した寺。朝鮮通信使などもここを宿にしたようです。下関は、昭和20年の戦火でほどんの建物が焼失してしまいますが、この三門は、燃えずに残ったものとのこと。 江戸時代末期、引接寺付近が山陽道の起終点でもあったことから、大繁華街だったようです。また、本寺に関する面白い伝説が残っているのがまた面白い。
名前 |
浄土宗 引接寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
083-222-0575 |
住所 |
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評価 |
3.7 |
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引接寺の共同墓地内に建つ、西南戦争(1877)の官軍墓地です。明治15年に政府より出された公文書「戦死人墳墓修繕並掃除費定額ノ件」内での記述で、その存在が確認できるものの、現在でも残っているのか情報が全く無かったので、実際に現地に赴き注意深く墓石一体一体探してみましたが、幸運な事に無事対面する事が出来ました。住職様もこの墓石自体は把握してらっしゃったそうですが、詳細はご不明だったとのこと。埋葬者は山口県岩国出身の井尻友義で、別働遊撃第一中隊として従軍中の明治10年5月30日、現在の大分県豊後大野市での戦闘で負傷、下関陸軍病院での治療の甲斐も無く、同年6月25日に死亡しました。享年28歳。その後住職様に許可を頂き、片栗粉を用いて墓銘を浮かび上がらせ、詳細を読み取る事を試みました(作業後は、きちんと水で片栗粉を流し落としました)。以下、その内容です。(正面)別働遊撃第一中隊兵卒山口縣士族 井尻友義墓(背面)維時明治十年五月三十日討薩賊戦于豊後国三重市被銃創同年六月二十五日馬関於陸軍臨時仮病院没矣行年二十八年七ヶ月。