香春岳三山の歴史を感じる。
香春神社の特徴
香春岳の三つの岳から遷座された歴史的な神社です。
産土神参りの途中に寄りたくなる美しい桜が見られます。
近くには猿が遊ぶ静けさを隠れた魅力とした神社です。
地図で検索中に発見し訪問しました。境内に上がる手前に池があるのですが、そのすぐ手前までは駐車場があり車で登れますが、道幅が狭いのと結構急な坂なので注意が必要です。池から階段を上がると、すごく立派な神社が現れます。結構主要な町や道路から離れた山奥に、ここまで大きな神社があるのを見るのは初めてでかなり驚きました。通常の神社なら拝殿と本殿くらいですが、ここはとても立派な回廊で囲まれており、以前はかなり賑わったであろうことが伺えます。神社のふもとに走る県道405号線あたりは、昔は秋月街道という立派な街道だったので当時はお参りする方も多かったのでしょう。今はあまり参拝する方も居ない感じで、少し寂しい雰囲気がありました。
集落の太平洋セメントのベルトコンベアをくぐった先に境内入口があります。
香春神社は、709年に香春岳の三つの岳に祀られている神をここに合祀したのがはじまりとされます。御祭神は、一の岳の辛国息長大姫大自命、ニの岳の忍骨命、三の岳の豊比売命の3神です。辛国息長大姫大自命は辛国(新羅)から来た神とされる渡来系の神様とされていますが、一方では神功皇后とする説もあります。忍骨命は天照大御神の一子とされる神様です。豊比売命は、神武天皇の外祖母で住吉大神の母とされる神様です。延喜式神名帳では、豊前国の神社は六座でその内の三座が香春神社にあり、残り三座が宇佐神宮とされています。古来より宇佐神宮とともに豊前国を代表する大神社だった様です。また境内に山王石という巨大な石がありますが、これは昭和14年6月30日香春岳山頂から落下してきて鎮座したものだそうで、建物にも人にも一切の被害はなかったそうで、神の石として祭られています。
素晴らしい❗静かでとても良い場所です❗今は時々猿が周りをうろついてます。小猿が本当に可愛いですね🎵
香春岳の中腹にある歴史ある格式の高いお社です。式内社の小社で旧社格は県社です。その延喜式神名帳には豊前国は6座記載されているのですが、その内の3座は宇佐神宮にあり、後の3座はこの神社に祀られています。それほど格式の高い神社が何故別表神社でないのかは解りかねます。主祭神は辛国息長大姫大自命(一ノ岳)、忍骨命(二ノ岳)、豊比咩命(三ノ岳)に各々祀られていたと云います。創建は古く和銅2年(709年)、一ノ岳南麓に社殿を建立し、三柱の神を合祀した事に始まると伝わります。これは宇佐神宮の創建(725年)より遥かに早い時期になります。神階も承和10年(843年)に辛国息長大姫大自神社と忍骨神社に正一位が与えられており、宇佐神宮と並ぶ格式を誇っていました。豊前国一ノ宮は一般的には宇佐神宮とされていますが、古い資料には香春神社と記載されているものもあるそうでさす。香春神社の祭神に付いては諸説ある様で、鳥居の前の由緒書を読むと「辛国息長大姫大自命は神代に唐の経営渡ラセ給ヒ、崇神天皇ノ御代ニ御帰国。香春一ノ岳ニ鎮リ給フ」とあります。唐の経営をして帰国、と言えば連想するのは神功皇后です。古事記によると崇神天皇は258年(318年)没とされています。神武天皇から続く天皇は空位、所謂想像上の天皇と言われています。恐らくは大和朝廷の、そして天皇の正統性と権威を高める為に「創られた正史」の可能性が高いとされています。その中で崇神天皇は初めて実在した人物ではないかと言われています。もし崇神天皇が古事記の通りの没年ならば、神功皇后の三韓征伐と符合します。つまり辛国息長大姫大自命は神功皇后ではないか、という事です。中々に面白い考察と言うか有り得る話ですね。そうなると忍骨命はと言うと前述の由緒書を読むと「天照大神ノ第一皇子ニシテ二ノ岳に鎮リ給フ」とあります。天照大神の第一皇子と言えば天忍穂耳命に他なりません。更に由緒書の記述は「豊比咩命は神武天皇ノ外祖母、住吉大明神の御母ニシテ三ノ岳ニ鎮リ給フ」と続きます。記紀にはない姫で誰なのか比定出来ません。何れにせよ和銅の創建以前から祭祀が行われていた土地である事に違いは無いようです。境内に巨石がありますが(後述)、古い巨石信仰があったのかも知れません。閑話休題。続く神社の歴史は天平19年(747年)、赤染広足、常世の姓を賜るとあります。代々赤染氏が宮司を務めておられ、現在の宮司さんの祖となる方です。延暦22年(803年)、遣唐請益僧最澄、香春明神に渡海安全を願い、寺を造り読経す。後、神宮寺で法華経を講じ神恩を謝す。天正14年(1586年)、豊臣秀吉九州平定につき、社領没収、僧離散、宮司等権威衰退した。小笠原氏の時代になり再興し祭もたがわぐん規模で行われる様になる。現在の社名になったのは明治4年(1871年)になっての事でした。社史にはもっと詳細に書かれていますが此処では割愛します。境内は桜並木の参道に続き、やや長い石段を上った先にあります。回廊を翼の様に伸ばし、そのおくに入母屋平入り、唐破風を持つ拝殿があり、幣殿、三間社流造の本殿があります。本殿屋根には3本の鰹木と外削ぎの千木を乗せています。社務所はなく無人ですが境内は綺麗に清められています。兵どもが夢のあと、ではありませんが若干の空虚さを感じるのは、権勢を誇った頃の名残が余りないせいでしょうか?境内の巨石は昭和14年(1939年)、浅野セメント砕石工場から落下してきたものだそうです。重さは約200トンもあるとか。怪我人等はなかったそうです。駐車場は国道201号線から1本入った道にヘアーサロンがあり、その隣に10台分程度のスペースが確保されています。足腰に自信のない方は、もう少し裏手に狭い道があり、そこを上れば境内近くにまで車で行けます。社務所は無いので御朱印は宮司さんの家で在宅であれば、書置きを頂く事が出来ます。桜並木は落花繽紛盛んというタイミングでしたが、参道が花びらで敷き詰められ、絨毯の様で非常に美しかったです。御朱印を頂く間、桜並木を褒めていたら大変喜ばれ、貴重な香春神社創建一千三百年の記念由緒書を頂戴しました。近くにこんな由緒がある神社があるとは思いませんでした。灯台もと暗しでした。香春神社の近くには神功皇后、応神天皇を祀る古宮八幡宮がありますので、近々参拝しようと思います。歴史の真実はこういった小さな神社に秘められているのかも知れませんね。勉強になりました。【2021.05.14追記】宮司さんから頂いた由緒書を粒さに読んでいると以下の項目を見付けました。「和銅6年(713年)、昔、新羅の国の神、自ら渡り来たりて此河原に住む。名付けて鹿春(かわら)の神という(豊前国風土記)」新羅の国から渡り住んだ神と言えば天日鎗命を想起します。天日鎗命が宝物を持って渡来したのは、垂仁天皇3年(紀元前27年)とされています。豊前国風土記のいう「昔」が上記の事とすれば、鹿春の神は天日鎗命に繋がる渡来神の可能性があります。天日鎗命は但馬国の出石神社に祀られている神です。何故に豊前と但馬という遠く離れた場所に似た記述があるのだろう? 天日鎗命は但馬国で生涯を終えたとされています。という事は最初は豊前国に辿り着き、そして但馬国へと移り住んだのではないでしょうか。この流れは稲作文化の東上説に矛盾しません。但馬地方はじめ出雲国には天日鎗命伝説が各地にあります。命を中心とした渡来人集団は各地に足跡を残しながら移動したのかも知れません。香春には命の生涯に付いての記述が無い事からも、この仮説は的を射てるかも、と思います。もう少し調べてみる価値はありそうです。
先日 こちらの前を通ったとき、あまりにも桜がきれいだったため、日を改めて参拝に行きました。階段が結構ありますが、すごく情緒あるよい神社でした。
産土神参りに鹿児島から小倉へ向かう途中、田川炭鉱資料館にあった一枚の古写真に惹かれ導かれるように立ち寄りました。幼少期に育った所が香春口、調べてみると香春に向かう街道の入口だったとか、参道を上がってみると何ともいえない心地良い雰囲気が漂う境内、社殿、御神木、香春岳から落ちて来た岩石、そして悲しげな今の香春岳、ここに導かれたのには何か理由が、と思い色々と調べてみると、前の豊前国一之宮や鹿児島神宮等資料などにも香春神社の名前が出て来たり宇佐との繋がり、隼人と豊前の繋がりを感じ驚きを隠せません。新羅からの神とありますが元は古代日本から新羅へ渡った神が帰って来たのだと個人的には思います。色々と考えさせられた神社でした。駐車場あり。石階段もそこそこあります。
県社です。緩やかなやや長い階段を登ると拝殿に到着します。元々は、豊前国の一宮だったとか。静かで清掃の行き届いた神社です。
森林の中にある✨威厳風格のある神社です。参道鳥居や狛犬も歴史が感じられます。本殿の正面に彫られている鶴、亀、龍、麒麟、鳳凰、兎等も素晴らしいです。山から降ってきた山王石は神が宿る石パワーストーンです。心地よい空間でした。
名前 |
香春神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0947-32-2868 |
住所 |
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評価 |
4.1 |
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大変立派な神社様です。駐車場有ります、他の道で車で軽打に上がることもできるようです。有名な神社なのでしょう、私が行く神社にしては珍しく他にも参拝客が沢山居られました、車を止める場所などを田恒て来られる方も有りました。立派な神殿、ご神木、筑後型で大変大型の狛犬様が鎮座しています、つるが絡まっているので取ってあげたい気分でした。また参拝の後はご本殿の方にも少し歩まれますと複数のお釈迦さまや珍しい木造随身様も見られます。狛犬も居ますよ~