和泉式部の庵跡、歴史の息吹。
和泉式部庵跡地の特徴
和泉式部庵跡地は、平安時代の女流歌人の伝説が息づく場所です。
案内板を探して、民家の間を進むと出会える史跡です。
石川の曲木地区出身の和泉式部の痕跡が残る貴重なスポットです。
案内板がある民家の間から山に少し入った所に在ります。あまり人が来ない様で山道が草で隠れて分かり難い。
伝説では、我が石川町の曲木地区(看板には、真垣と表記されている)出身の和泉式部での痕跡が、ここにもありました。白河市指定史跡 和泉式部庵跡と化粧の井所在地 白河市表郷中野字式部内所有者 表郷中野区指定年月日 昭和55年3月14日平安中期の女流歌人として紫式部、清少納言と並び称された、和泉式部の庵跡と伝えられる。式部は石川郡真垣の城主の娘といわれ、若くして上洛した後、和歌にその才能を発揮したという。長久2年(1041)父の重病を見舞うため帰郷する際、騒乱のため道を通行できず、この地で草庵を作り、守り本尊として持参した阿弥陀三尊像を祀って鎮まるのを待ったと伝えられる。しかし、騒乱は鎮まらず、「白河の関に 此身はとめぬれど 心は君が里にこそ行け」の歌を詠んで故郷に贈り、空しく帰洛したという。側に化粧の井という古井戸がある。白河市。
名前 |
和泉式部庵跡地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
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少し分かりにくい場所に案内板があります🥷『白河の関に 此身はとめぬれど 心は君が里にこそ行け』(石川ノ郡真垣城主)金子十郎国康の娘と生まれ、十三才の時に京都に上り、大江雅致の養女としてその才学を賞された平安時代の女流歌人『和泉式部』の庵跡と伝えられる場所です。父の国康が重病となり、暇をもらい帰郷の途次、白河の関まで辿り着いたが、士族の争いの為に先へ進めず鎮まるのを待った庵跡🥷