静かな丘で味わう御朱印。
城官寺の特徴
城官寺は創建から約400年の真言宗豊山派の古刹である。
御府内八十八ヶ所霊場の第47番札所として知られている。
鳥の鳴き声が響く静かな環境で心穏やかに過ごせる。
筑紫の安楽寺の僧侶が諸国巡礼の途中、当寺に宿泊し、訳あって本尊の阿弥陀如来像を奉納したため、安楽院と称しました。当時の宗派は浄土宗でしたが、寛永11年(1634)に山川貞久(城官)が社領修理をおこなった時に別当とした時から現在の真言宗豊山派になったと言われています。開基 山川貞久に関しては高札画像添付してあります。山門扁額の揮毫は田中角栄総理でした。
平塚神社を訪れた後に立ち寄りました。表門の山号額には平塚山とありますが隣接した平塚神社との関連は不明です。ちょっとした説明板でもあれば有り難いのですが見当たりませんでした。本殿は中々立派な造りだと思いました。
御府内八十八ヶ所の御朱印をお受けに伺いました。書き置きが書いてあるだけでしたが、しっかりいただきました。お金を入れるところは不明でした。
真言宗豊山派 平塚山 安楽院 城官寺。創建は不詳である。江戸時代に江戸幕府第3代将軍徳川家光公の病の平瘉を祈願して信頼を得た山川城官貞久がこの寺に入り、寛永11年(1634年)に中興したと伝えられる。山門に掲げられた「平塚山」の文字は田中角栄元総理の筆によるものである。境内には江戸幕府の医官、待医となった多紀桂一及び一族の墓所がある。
御府内八十八ヶ所霊場の御朱印を頂きに参拝。御府内八十八ヶ所霊場と豊島八十八ヶ所霊場、滝野川寺院めぐりの札所です。上中里駅から豊島方面へ台地を登った場所にあり、すぐ近くには律令時代の武蔵国豊島郡衙跡と言われる平塚神社があります。さて縁起でありますが、昔、筑紫の安楽寺の僧侶が諸国巡礼の途中、城官寺に宿泊し、訳あって本尊の阿弥陀如来像を奉納したため安楽院と称した。ちなみに当時の宗派は浄土宗だったそうです。寛永11年(1634年)に山川貞久(城官)が社領修理をおこなった時に別当とした時から現在の宗派になったと言われています。御朱印は本堂向かって左手に寺務所がありますが、直書きは現在受け付けておらず、玄関前に机と棚が置いてあり、そこから自分で御朱印を取り出し日付を書いて…という形になります。御朱印は通常の御朱印帳に貼り付けるものだけでなく、御府内八十八ヶ所霊場専用御朱印帳の、横にパンチ穴の開いた差し替え用のものも有り。確か御朱印代を納める所もそこにあったと思います。
上中里の丘の上にあり、創建から約400年の真言宗豊山派の古刹です。本堂手前には屋根付きの休憩しもあり、飲料の自販機も設置されています。本堂横には、くまモンとピカチュウが設置されています。
都内にありますが、騒音などとは無縁のところで、鳥の鳴き声しか聞こえてこない、とても静かな場所です。山門の扁額は田中角栄氏が書いたものです。そばに旧古河庭園や平塚神社があります。
多紀桂山一族墓東京都指定文化財(旧跡)昭和11年3月4日指定多紀藍渓は桂山の父で、名医丹波康頼の子孫である。安永年間(1772~81)侍医となり、法眼に叙し、やがて法印に進んだ。彼は製薬所を設置し、医官の子弟をことごとく就学せしめて教育に尽した。享和元年(1801)5月14日歿。年七十。桂山は父藍渓のあとを襲い、幕府の医官となった。寛政2年(1790)侍医となり、法眼に叙し、医学教諭を兼ねたが、享和年間侍医を罷免された。その後著作に専心し、多くの医学書を残し、文化7年(1810)12月2日、年五十六で歿した。元安は桂山の子で文政10年(1827)6月2日40才で歿したが桂山の二男元堅は別家を本石町に立て、幕府の奥医となり、法院に進み、医学館の教授となった。安政4年(1857)9月14日に歿した。
平塚山城官寺。真言宗豊山派の寺院。御本尊は阿弥陀如来。
| 名前 |
城官寺 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
03-3910-3343 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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御朱印のみですここは本堂の前左手に小箱が有りそこから300円入れて頂く完全セルフです境内は綺麗で良かったのですがなんかガッカリでした御府内八十八ヶ所霊場第四十七番札所阿弥陀如来。