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| 名前 |
高木神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
村社 高木神社 朝倉郡宝珠山村大字宝珠山字大行司祭神 伊弉諾命、高皇産霊命、伊弉册命由緒 明和元年申閏十二月創立永承四年三月移転明治五年十一月三日村社に被定。附記従前の記録、上記の通りなるも明和元年は第百十七代後桜町天皇の御宇紀元二四二四年、永承四年は第七十代後冷泉天皇の御宇紀元一七〇九年なり、創立年代誤記乎例祭日 七月二十八日 十月二十九日主なる建造物 神殿、拝殿境内坪数 二百二十五坪氏子区域及戸数 約三百戸 大字宝珠山境内神社 天満宮(菅原神)福岡県神社誌ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー宝珠山村史跡ガイド高木神社(たかぎじんじゃ)【宝珠山村大字宝珠山字大行司】大行司(だいぎょうじ)の高木神社は、明治以前は大行事社(だいぎょうじしゃ)と呼ばれていました。彦山(ひこさん)は、嵯峨天皇から賜った英彦山神領内の各村に、弘仁(こうにん)一三(八二二)年、鎮守神として高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)を御祭神とする大行事社を置いたと言われています。この高木神社も、その一つで、旧宝珠山村・現在の大字宝珠山を守護する鎮守神の大行事社として勧請されたものです。中世には、彦山の宝珠山村支配の政治的・経済的拠点、村民統合の象徴として大きな役割を担っていたものと思われます。境内の楠の大木は、樹齢が500年と言われ、村の盛衰をじっと見つめてきました。Takagi-Jinja ShrineTakagi shrine in Daigyouji had been called Daigyauji-sha shrine before Meiji restoration. It is said that in 822 Hiko-san shrine put Daigyauji-sha shrine in every village in the Hiko-san’s holy fief given by Emperor Saga-Tennou, in order to prevent the holy fief from the evil.Takamimusubi-no-mikoto,Izanagi-no-mikoto and Iwanami-no-mikoto are enshrined. The Takagi-shrine is one of the Daigyauji-sha shrines, and built to prevent Hoshuyama village. In the middle age, this shrine played an important role as a political and economical base of the feudal lord, Hiko-san shrine to rule the village and as a symbol of unity of the people in the village. Camphor tree about 500 years old in the precincts have been watching the rise and fall of this village.境内掲示由緒板東峰村指定天然記念物宝珠山(ほうじゅやま)高木神社の森東峰村大字宝珠山三十三番地平成二十年八月十八日指定宝珠山高木神社の境内を形成する鎮守の森。境内にはイチイガシ一本、イヌマキ一本、オダマキノキ一本、カゴノキ一本、カヤ五本、クス二本、ムク二本、などがあります。中でも特に大きなカヤは幹周り四一三㎝で九州でも屈指の大木であり、その他にも二四〇㎝前後が三本あります。樹木群のなかにカヤを多く含む林相が貴重であり、指定してほぞんするものです。平成二十一年一月東峰村教育委員会境内掲示案内板高木神社の石躰説明神社創建 八二二年(平安時代)社殿設立 一七六四年(江戸時代)現在の社殿hが一七六四年の建立で、三基の石躰は本殿の内陣を構成する格柱のほぼ中央部に配置されている。しかし外部からの出入り口が無く、この空間に入っての礼拝、祭祀はできず、むしろ封印されたようである。宝珠山大行事社(高木神社)のような石躰は、中世期の彦山系山岳信仰の中では、むしろ普遍的な存在であった。しかし、近世以降の変化は大きく、当初の姿を留めている窟は極めて少なく、こと神社に関しては皆無に近い。特に黒田藩領内における神社の吉田神道化は藩の方針とされ著しく進んだ。当社も例外でなく、それまでの石躰に代わって神像を祀り、旧来の石躰を床下に封印したものと考えられる。しかし石躰の真上に各神像を祀るところからすれば、石躰の否定でないことは明白である。また墨書が存在した可能性がある。文責・山本義孝二〇〇七年 東峰村文化財調査報告書より本殿基部掲示案内。