広い駐車場と雄大な砂丘、心の休憩舎へ。
有島武郎歌碑の特徴
鳥取市浜坂の丘の上に位置する有島武郎歌碑です。
駐車スペースが広く、アクセスが容易になりました。
雄大な砂丘近くで、その詩情を感じることができます。
浜坂の遠き砂丘の中にしてさびしき我を見出でけるかも有島武郎(1878-1923)は、雄大な砂丘に身を置き『さびしき我』を見つけたのか、この歌を詠んだ一か月後、愛人と心中してしまいます。歌碑は武郎の妹・山本愛子の揮毫によるもので、この歌によって『砂丘』の名称が全国に知られることになりました。
「有島武郎歌碑」は鳥取市浜坂(柳茶屋)の休憩舎の側に建っています。有島武郎が鳥取砂丘を訪れたのは大正12年(1923年)4月30日45歳です。それから一月と10日後の6月9日に情死しています。当時、有島の情死は大きな話題となったようです。有島が鳥取砂丘の地で詠んだこの歌碑の歌と共に鳥取砂丘の名前が全国に一躍広まりました。有島武郎が鳥取砂丘を訪れた時代世相は動乱期でした。世界は第一次世界大戦、その間に起こるロシア革命等で社会主義が台頭しています。日本では情死の年、9月1日に関東大震災が発生しています。そうした時代背景の中で有島の情死が起こりました。20200608 お天気の良い午後昼下がり有島の命日前日にたまたま「有島武郎の歌碑」の前を通り掛かりました。 (合掌)
鳥取市街から砂丘に行く途中の丘の上に建つ有島武郎の歌碑。浜坂の 遠き砂丘の 中にして さびしき我を 見出でけるかも1923年 大正12年 4月30日に詠まれた歌。ここを砂丘と呼んだのはこの歌が最初らしい。歌が詠まれてから約2ヶ月後に有島武郎は軽井沢の別荘で婦人公論記者と不倫の末の心中をしたことが鳥取砂丘を全国的に有名にしたのだとか。親交のあった与謝野晶子が7年後に同地を訪れて詠んだ歌の歌碑は坂の途中にあった。沙丘踏みさびしき夢にあづかれる われと覚えて涙流るるサイクリングロード沿い。道路挟んで向いに無料キャンプ場も。
名前 |
有島武郎歌碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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駐車できるスペースが広くなりました。